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隠退牧師 holala によるブログ

あなたがたは世の光である(1)

一昨日、無牧の教会の礼拝説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
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聖書 出エジプト記6章2~8節
   ローマ 1:16~17
説教 信仰から信仰へ
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 マタイ福音書の山上の説教を少しずつ読み思いめぐらしています。今日は、5章14節「あなたがたは世の光である」を思いめぐらしました。

 この山上の説教は、イエスが弟子たちに語られたものです。弟子たちは、漁師だったり取税人だったり、取るに足りない人たちだったと言ってよいと思います。学者でもなく、哲学者でもなく思想家でもなく、宗教の専門家でもなく、有能な政治家でもなく、どこにでもいる平凡な人間でした。その弟子たちに向かってイエスは、「あなたがたは世の光である」と言われました。

 そして聖書を読む私たちは、このイエスの言葉を自分に向けられた言葉として読みます。弟子たちと同じように、取るに足りない平凡な信仰者である私たちに向かってイエスは「あなたがたは世の光である」と言われるのです。平凡な信仰者である自分にイエスは「あなたは世の光である」と言われるのです。

 私なんか世の光なんかなれません。私が世の光だなんて、おこがましくて受け入れられませんというキリスト者も多いのではないかと思います。だからといって、このイエスの言葉は私には関係のない言葉です、と言い切ってよいものなのでしょうか。急いで結論を出す必要はないと思います。もう少し聖書の言葉を思いめぐらしたいと思います。

 「あなたがたは世の光」とイエスは言いました。光は照らす働きをします。どこを照らすかと言えば、世を照らします。言い換えると世は暗闇だというのです。だから世は光で照らされる必要があるというのです。

 マタイ 4:15~16
「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。

 イエスが世に来られたときのことが書かれています。民は暗闇に住んでおり、イエスは光としておいでになったと書かれています。世は暗闇であると言われています。

ヨハネ 1:4~5
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 ヨハネ福音書もイエスは、光としてこられたと告げます。光は暗闇の中で輝いていますが、暗闇は光を理解しなかったとあります。当時の人々はイエスを理解しなかったとの意味です。

 マタイもヨハネも、イエスがおいでになった世は暗闇であったと語ります。人々は暗闇の中にいたと語ります。

ヨハ 8:12
イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」。

 イエスに従う者は、闇の中を歩むことがないとあります。言い換えるとイエスに従わない者は闇の中を歩んでいることになります。

 私たちが生きている現代の世界は、暗闇なのでしょうか。そして人々は闇の中を歩んでいるのでしょうか。それとも闇の中を歩くか否かは個人の問題であって、この世は暗闇でもなく光でもなく、たんに人間が生きる場なのでしょうか。

霧ヶ峰 2013.8