聖書黙想
放蕩息子の物語は、神の愛がいかなるものかを教えてくれます。
パウロは神の愛をどのように感じたのでしょうか。思い巡らしてみました。
御子を犠牲にする神の愛は、私たちを罪から救う愛、罪の支配から解放する愛です。
御子と犠牲にして人を救う神の愛はとても大きな愛で、救いを求める人を皆救う愛です。
人間を救うためにキリストが私たちのために死んだ下さいました。ここに示された神の愛ってどんなものなのでしょうか。
神は、その独り子を与えるほどによを愛されました。独り子を信じる人は永遠の命を与えられます。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 すごい戒めです。神の奴隷になりなさいと言っているかのようです。
神の愛の大きさはどれほどなのでしょうか。神の愛から出た恵みを受け取る時、神の愛の大きさは、私がいかに判断するか、です。
人間は神にかたどって、神の似姿に創造されました。神は人間を愛しているのです。
信仰とは神との交わりに生きることです。神は私たちへの愛のゆえに、私たちを交わりに招きます。
詩編143:5 私は過ぎ去った日々を思い起こし、あなたの行ったことを一つ一つ思い返し、御手の業を思いめぐらします。 御言葉に誘われ、人生を振り返りたくなりました。
聖書に導かれ、聖書が語る終末をどう信じたら良いのか、思いめぐらしました。
神を深く知ると心の目が開かれるようです。そうなりたい、今の私の願いです。
創世記12章に登場するアブラハム。彼は信仰に父と呼ばれます。私にとっても信仰の父です。
イエスは、エルサレムに行く決意を固めました。エルサレムで苦しみを受け、殺されるのに、エルサレムに行く決意。なぜこのような決意ができるのか。
イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果てているのを見て深く憐れんだとあります。自分が飼い主のいない羊であると気づいた時、私の心は晴れやかに。
キリスト者が抱く希望、キリスト者が受け継ぐ者が豊かに栄光に輝いていることを悟るようにとパウロは祈ります。悟りたいです。
父なる神のみ心は、イエスを信じる者が終わりの日に復活することであるとイエスは繰り返し語ります。終わりの日の復活を確信したい。
パウロはキリストを心の内に住まわせるように祈ります。キリストが自分の心の内に住むとはどういうことか。
教会の頭はキリストです。キリスト者はキリストに結ばれた存在です。
神の永遠の計画~天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
神の戒めを守る動機が大切です。神を愛する気持ちが大切です。
神の戒めをどう受けとめたらよいのでしょうか。守らなければいけないのでしょうか。
御国の子らと悪い者の子らが混在する世界。毒麦のたとえを読み、祈りを変えられました。
信仰によって義とされた人が罪を犯したとするなら、義とされたことは取り消されるのでしょうか。それでもなお義とされ続けるのでしょうか。取り消されません。
イエス・キリストを信じる人は神の前に義とされます。キリスト者は神の前に正しい人です。でもキリスト者は罪を犯します。それでも正しい人?
罪の赦しは神の恵みです。神の恵みは罪の赦しだけではなく、私たちを神に従う信仰者にさせます。
神は救い主イエスを世に送りました。イエスは罪を赦すためのいけにえとして十字架で死にました。罪を赦す神の方から、罪の赦しのためのいけにえを出すなんてありえない?
神はアブラハムに、あなたは妻サラによって子を授かると約束しました。彼の妻は90歳。ありえない?
神の語りかけを聞くことができる。そんなことはありえない、ありえないとよのひとびとはいうにちがいありません。でも私たちは聞きます。