聖書黙想
詩編143:5 私は過ぎ去った日々を思い起こし、あなたの行ったことを一つ一つ思い返し、御手の業を思いめぐらします。 御言葉に誘われ、人生を振り返りたくなりました。
聖書に導かれ、聖書が語る終末をどう信じたら良いのか、思いめぐらしました。
神を深く知ると心の目が開かれるようです。そうなりたい、今の私の願いです。
創世記12章に登場するアブラハム。彼は信仰に父と呼ばれます。私にとっても信仰の父です。
イエスは、エルサレムに行く決意を固めました。エルサレムで苦しみを受け、殺されるのに、エルサレムに行く決意。なぜこのような決意ができるのか。
イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果てているのを見て深く憐れんだとあります。自分が飼い主のいない羊であると気づいた時、私の心は晴れやかに。
キリスト者が抱く希望、キリスト者が受け継ぐ者が豊かに栄光に輝いていることを悟るようにとパウロは祈ります。悟りたいです。
父なる神のみ心は、イエスを信じる者が終わりの日に復活することであるとイエスは繰り返し語ります。終わりの日の復活を確信したい。
パウロはキリストを心の内に住まわせるように祈ります。キリストが自分の心の内に住むとはどういうことか。
教会の頭はキリストです。キリスト者はキリストに結ばれた存在です。
神の永遠の計画~天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
神の戒めを守る動機が大切です。神を愛する気持ちが大切です。
神の戒めをどう受けとめたらよいのでしょうか。守らなければいけないのでしょうか。
御国の子らと悪い者の子らが混在する世界。毒麦のたとえを読み、祈りを変えられました。
信仰によって義とされた人が罪を犯したとするなら、義とされたことは取り消されるのでしょうか。それでもなお義とされ続けるのでしょうか。取り消されません。
イエス・キリストを信じる人は神の前に義とされます。キリスト者は神の前に正しい人です。でもキリスト者は罪を犯します。それでも正しい人?
罪の赦しは神の恵みです。神の恵みは罪の赦しだけではなく、私たちを神に従う信仰者にさせます。
神は救い主イエスを世に送りました。イエスは罪を赦すためのいけにえとして十字架で死にました。罪を赦す神の方から、罪の赦しのためのいけにえを出すなんてありえない?
神はアブラハムに、あなたは妻サラによって子を授かると約束しました。彼の妻は90歳。ありえない?
神の語りかけを聞くことができる。そんなことはありえない、ありえないとよのひとびとはいうにちがいありません。でも私たちは聞きます。
聖書の中にある出エジプトの出来事。神の大いなる御業によるイスラエルの民の救出の出来事です。ありえないと思われる出来事の連続です。
キリスト者はありえないと思われることを信じる存在です。たとえばイエスの復活。死者が生き返るなんて、人間の常識からすれば、ありえない。
「だれでもわたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」.。イエスの兄妹となるために行うべき父なる神のみ心とは何か。
主イエスが語られた「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」との言葉が何と適切な言葉であることか、と思わされる昨今の世界の現実です。
福音は救いをもたらす神の力です。救いは罪からの救いでもありますから、キリストの復活は、私たちに罪に対する勝利をもたらす、神の力であることがもっともっと力強く宣べ伝えられて欲しい
先日、ロマ書8章29~30節を読んで、自分が信仰者になったのは、神の選びがあったこと、自分が神に愛されていたからだとあらためて思いました。
アブラハムは信仰の父と呼ばれます。自分が生きている間には実現しない神の約束を信じるという点でも、アブラハムは私たちの先輩であり、模範であり、父です。
私は若い日、むなしさを覚えていました。聖書には空しさからの救いについて明確な記述があります。
「万事が益となるように共に働く」との聖書の言葉を思いめぐらし、適用することにしました。
イエスが弟子を派遣し「天の国は近づいた」を宣べ伝えさせた。宣べ伝える者の責任を教えられる。