聖書黙想
主イエスが語られた「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」との言葉が何と適切な言葉であることか、と思わされる昨今の世界の現実です。
福音は救いをもたらす神の力です。救いは罪からの救いでもありますから、キリストの復活は、私たちに罪に対する勝利をもたらす、神の力であることがもっともっと力強く宣べ伝えられて欲しい
先日、ロマ書8章29~30節を読んで、自分が信仰者になったのは、神の選びがあったこと、自分が神に愛されていたからだとあらためて思いました。
アブラハムは信仰の父と呼ばれます。自分が生きている間には実現しない神の約束を信じるという点でも、アブラハムは私たちの先輩であり、模範であり、父です。
私は若い日、むなしさを覚えていました。聖書には空しさからの救いについて明確な記述があります。
「万事が益となるように共に働く」との聖書の言葉を思いめぐらし、適用することにしました。
イエスが弟子を派遣し「天の国は近づいた」を宣べ伝えさせた。宣べ伝える者の責任を教えられる。
イエスは憐れみ深い方です。「憐れんでください」と言ってイエスに近づく人を憐れみ、その願いを聞いてくださいます。
「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」、「信仰の薄い者よ。なぜ、疑ったのか」とイエスは言われます。恐れや疑いがあっても惑わされず信じる歩みをしたい。
罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。これは極端な言葉に見えます。でも人がどこに属しているのか、問いかけているように思います。
イエスは語ります。「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」。強烈な言葉です。
神に訴える祈り、神は隠れているかのように状況は変わらない。しかし詩人は神への希望を語る。
人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。
人を裁くな。イエスの教えです。私たちの心には自分を誇りたいとの重いがあるのでしょうか。
キリストに見倣う歩みをどのように実践するのか、私の場合の紹介。
神は世の初め、人間を造られるとき、人間が罪を犯すことをご存じでした。イスラエルの歴史を通して人間の罪が明らかになってから救い主を送るというのが神の計画でした。
新約聖書を読むと、信仰生活にとって御子の存在は大きなものがあります。
素朴な質問をするなら、神の子ってなに? 人間を救うのはなぜ神の子? 救い主は、神の御子だというのです。どういうことなのかと思案します。
アリマタヤのヨセフはイエス様の遺体を引き取り墓に納めました。イエスの死を思って導かれた祈り。
死に際し、自分の霊を神にゆだねるのは、すべてのクリスチャンに共通の思い、願いであると思います。イエスに倣い自分の霊を神にゆだねて死にます。
イエスと共に十字架につけられた犯罪人。二人のイエスに対する態度は対照的。
死に至るまで、十字架の死に至るまで、神に従順に生きるイエスを見る。十字架の死に至るまで、そこには人々からの侮辱を受けるという状況もあるのにイエスはなお神に従順に歩まれた。
イエスは自分を死に追いやる最高法院で、堂々と証しをします。
イエスは苦しみもだえて祈られた。その姿に思いを馳せる。
主の晩餐において、キリストは新しい契約をもたらす方であると語られました。信仰者が律法を満たすようになるという約束。
ルカ福音書が伝えるイエスの受難予告について、その意味はは弟子たちに理解できないように隠されていたとあります。
主イエスは受難の予告を弟子たちにしました。長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されるというのです。
自分はみじめだと告白するのは誰なのかという追求は、底なし沼に踏み込むようなものだと思います。沼から出ることができなくなり、さらにはキリストによる救いが何であるかが見えなくなるように思います。
理解するのがむずかしい聖書の箇所があります。そういう箇所は注解書を見ても説明がなかったりして疑問が解決しません。だからむずかしい箇所が分かるということはとてもうれしいです。
キリストは御子でありつつ、人となり、十字架の死に至るまで、神に従順に歩まれました。キリストの苦悩を思う受難節です。