クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書黙想

聖書が告げる救い

聖書が告げる救いの三つの側面、過去、現在、未来の救いについて考えます。

キリストの復活を信じる

神はキリストを復活させました。これは神の大いなる力によります。この力が私たちにも働くとすれば

愚弄されるにまかせるイエスさま

ローマの兵士たちに愚弄されるにまかせるイエスさまのお姿。どうしてそこまで。

わが主、イエス

イエス様は「あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る」と語り死刑にあたると裁かれました。。

わたしと共に目を覚ましていなさい

ゲッセマネの園でイエス様は「わたしと共に目を覚ましていなさい」と弟子たちに命じました。これは私に向けられた言葉です。

聖書をこととして読む

イエス様は聖書に示された神さまの救いの計画に身を投じました。聖書を我がこととして読むことを教えられます。

祈り、そして決断

ゲッセマネの園で祈り。祈りの中で、十字架への道を決断するイエス。そして「立て、行こう」と前進するイエス様

イエス様の悲しみ

ゲッセマネの園で主イエスは祈られました。そのとき、「死ぬばかりに悲しい」とイエス様は言われました。何を悲しまれたのでしょうか。

キリスト者の弱さと強さ

自分の弱さにどう対処するのか。弱さに直面する時、それは神さまの出番です。

弱さを誇るキリスト者

イエス様は朱の盤さんの後、弟子たちがみなつまずくことを告げます。それはなぜなのか。

神の愛の大きさ

主の晩餐の記事から神さまの愛を思いめぐらしました。

確かさの追求

信仰を持つ人は、自分が信じることが確かであるとの思いを持つのではないでしょうか。確かさの追求は私の課題です。

狭い門から入る

私たちは神さまの教え、戒めに目を向けがちですが、これを与える神さまに目を向けることが大切です。

なぜ狭い門から入るのか

キリスト者はなぜ狭い門からかいるのか。

狭い門から入りなさい(2)

細い門から入りなさい。これは命に通じるとあります。細い門から入ることが救いの条件になるのでしょうか。

狭い門から入りなさい

狭い門から入りなさい。有名な教えです。細い門から入る人がクリスチャンというわけではありません。これは私たちに向けられた教えです。

神の教えに従うということ

神の教えをを知っていることと神の教えを守っていることとは別です。この区別をはっきり知ることが大事だと思います。

信仰者の衣替え

信仰者にも衣替えが必要です。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るのです。

求めなさい、そうすれば与えられる

求めなさい、そうすれば与えられるとのイエス様の教えの真の意味は何でしょうか。腑に落ちました。

子と父と若者(続きの続き)

成熟した信仰者とはどのような人を言うのでしょうか。神の救いの計画に生きる人です。

子と父と若者(続き)

真個須屋の成長の段階を示す、子と父と若者。聖書の言葉は思いめぐらすと面白い。

神の教え・戒めの受けとめ方

神の教えとどう向き合うのか。それは神とどう向き合うのかに関係している。

愛は自慢せず、高ぶらない

愛は自慢せず、高ぶらない。コリント書の言葉を思いめぐらしました。

愛はねたまない

愛はねたまない。なぜねたんではいけないのか。でもねたみの感情は湧いてきます。

私は生かされているのか

人が「私は生かされている」と語るのを聞きます。でも神を信じる私は、生かされているという思いはありません。神を信じているのに。

愛は忍耐強い

愛とは何かを語る時、パウロは最初に「愛は忍耐強い」と語ります。なぜ一番最初に「愛は忍耐強い」と言ったのか、疑問が湧きました。

試練の諸段階(2)

試練を通して、聖書の言葉が自分を支える大切な言葉になっていきます。聖句が自分のものになっていきます。

試練の諸段階(1)

試練をくぐる時、そこには段階があるのではないかと考えました。4段階。

神への信頼を形に

試練に直面したとき、それは信仰に生きるときであり、不信仰にお通るときです。どちらを選ぶのか。

キリストに結ばれたわたしの生き方

信仰者の生き方を表現する言葉は色々ありますが、すてきな表現が聖書にありました。「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方」