聖書黙想
素朴な質問をするなら、神の子ってなに? 人間を救うのはなぜ神の子? 救い主は、神の御子だというのです。どういうことなのかと思案します。
アリマタヤのヨセフはイエス様の遺体を引き取り墓に納めました。イエスの死を思って導かれた祈り。
死に際し、自分の霊を神にゆだねるのは、すべてのクリスチャンに共通の思い、願いであると思います。イエスに倣い自分の霊を神にゆだねて死にます。
イエスと共に十字架につけられた犯罪人。二人のイエスに対する態度は対照的。
死に至るまで、十字架の死に至るまで、神に従順に生きるイエスを見る。十字架の死に至るまで、そこには人々からの侮辱を受けるという状況もあるのにイエスはなお神に従順に歩まれた。
イエスは自分を死に追いやる最高法院で、堂々と証しをします。
イエスは苦しみもだえて祈られた。その姿に思いを馳せる。
主の晩餐において、キリストは新しい契約をもたらす方であると語られました。信仰者が律法を満たすようになるという約束。
ルカ福音書が伝えるイエスの受難予告について、その意味はは弟子たちに理解できないように隠されていたとあります。
主イエスは受難の予告を弟子たちにしました。長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されるというのです。
自分はみじめだと告白するのは誰なのかという追求は、底なし沼に踏み込むようなものだと思います。沼から出ることができなくなり、さらにはキリストによる救いが何であるかが見えなくなるように思います。
理解するのがむずかしい聖書の箇所があります。そういう箇所は注解書を見ても説明がなかったりして疑問が解決しません。だからむずかしい箇所が分かるということはとてもうれしいです。
キリストは御子でありつつ、人となり、十字架の死に至るまで、神に従順に歩まれました。キリストの苦悩を思う受難節です。
独り子を与えてくださった、そこに神の愛があります。二つの恵みがあります。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。この聖書の教えは、愚かな教えに見えるかもしれません。でも・・・
永遠の命とは、キリスト者を神に結びつけ、神に結びつけられた者としてのキリスト者を生かす命と言うことができると思います。
神は独り子を信じる者に永遠の命を与えてくださいます。キリスト者は永遠の命に今生きています。
神は独り子を世に送り、私たちを救ってくださいました。救いは神の恵みです。神の愛は恵みに満ちた愛と知ります。
神の愛はどれほど深く、大きいのでしょうか。それは滅びに値する者を見放したり見捨てたりすることなく、救おうとするほどです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 私は滅びる側の人間なのでしょうか。
聖書が語る滅びとは何か。神に見捨てられることと私は考えています。
ヨハネ 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 滅びとは何でしょうか。
敵を愛しなさいに続いて、迫害する者のために祈りなさいと主イエスは教えます。迫害する者を敵と見なせば、彼は私を攻撃しているのです。
敵を愛しなさい。この命令はキリスト者に向けられています。キリスト者がこの命令に従うのは、天の父の子となるためとあります。
今週は「敵を愛しなさい、迫害する者のために祈りなさい」とのイエスの言葉を読み、思いめぐらしています。
私自身が神の愛を知ったために、自分に何が起きたのか、3つの変化を自覚しています。第一に、心の深いところに平安と喜びがあります。それは神との間に平和を得ているからです。
聖書は、私たちに対するキリストの愛についても語っています。 「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように」
神の愛はどれほどの愛?それは人間を絶対に見捨てないほどの愛であり、神の子と呼ばれる資格のない者をなお神の子と受け入れてくださるほどの愛。
人は自分の罪を知るとき、神の愛を知ります。愛されるに値しない自分を愛する神の愛。
ヨハネ一3:1 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」。 考えてみました。