クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書が分かるうれしさ

 理解するのがむずかしい聖書の箇所があります。そういう箇所は注解書を見ても説明がなかったりして疑問が解決しません。だからむずかしい箇所が分かるということはとてもうれしいです。今回、分かったというのは、ロマ書7章24節です。

7:24
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と嘆く人は誰か、というのが問いです。この人はどういう問題を抱えているのでしょうか。この人は次のような問題に直面しています。

7:19~20
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 「自分の望む善」とは神の律法が命じることです。神の律法を行いたいのですが、それを行うことができない、律法が命じることと逆のことをしてしまうという深刻な悩みがあるのです。この人は、自分が望むことを自分が行えないのは、自分の中に罪が住んでいるからだと語ります。自分は罪の支配下にあるというのです。

7:21
それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。

 自分を観察した結果、悪が付きまとっているという法則があると語ります。さらに続きます。

7:22~23
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

 この人は心では神の律法を喜び、これを行いたいと願う。でも罪の法則があって、自分は罪のとりこになっていて神の律法を行うことができない。自分は何とみじめな人間なのかと嘆くのです。

 このみじめな人は誰か。自分の信仰者としての体験や自分の聖書理解に基づいて理解しようとしますが、なかなかスッキリした理解を得ることができません。ようやく最近、スッキリ理解できてうれしく思っています。何ともいえない喜びです。

 私が尊敬する牧師は、聖書を読むときは、文脈を大切にしなさいと語ります。文脈が大切なのです。そして私が得た結論は、このみじめな人とは、誠実に「神の律法に仕える」人だという理解です。それだけです。

7:25
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

 この人は「心では神の律法に仕えている」と語る人です。ちなみに私は、キリストに仕え、神に仕える信仰者であると考えています。神の律法に仕えているという意識はありません。私は律法から解放された信仰者であると考えています。

7:6
しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

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