クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

説教 神をどんな方と考えるのか

 昨日はU教会で説教の奉仕を行いました。夏休みをとられた先生の代わりに説教をしました。音声で聞きたい方は「ここをクリック」をクリックしてください。

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旧約聖書 出エジプト記 34章4~7節
新約聖書 ルカ福音書 15章11~32節
説教  神をどんな方と考えるのか

→今日、こうして説教奉仕の時を与えられ感謝しています。
神さまの戒めを守るという点で、私はクリスチャンに二つのタイプがあるのではないかと思っています。
たとえばAさんは、信仰者だから神さまの教えは守らなければならないと考えています。
Bさんは、私は神さまの教えは喜んで守りたいと考えています。

→この二つの違いがどこから生じるのかと考えます。
私たちが神さまをどのような方と考えるのか、
それによって私たちクリスチャンの生き方が違ってくると考えます。
つまり、Aさんか、Bさんか、分かれるのではないかと思うのです。
そこで今日は、放蕩息子の物語を味わいたいと思います。
     ☆
→主イエスがこの放蕩息子の物語を語られた理由が、
ルカ福音書15章の冒頭に書かれています。

ルカ 15:1~2
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

→主イエスはファリサイ派や律法学者たちから
不平を言われたので、
15章のたとえを語ることになります。

蝶のモビール U教会の部屋で

→徴税人は税金を集める仕事をしています。
彼らは集めた税金をローマ人の役人に手渡します。
ローマ人はユダヤ人ではなく、異邦人です。
ローマ人は神を知らない人たちで、彼らと関わることは
自分の身に汚れをもたらすと
ファリサイ派の人たち、律法学者たちは考えていました。

→また罪人と呼ばれるのは、
会堂の礼拝に集わず、神の教えを知らずに生きている人たちです。
彼らとつきあうなら、自分たちは汚れることになると
ファリサイ派や律法学者たちは考え、つきあいを避けています。
神さまの戒めにこうあります。

レビ記 19:2
イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。

→聖なる者となるために、ファリサイ派や律法学者たちは汚れた者とのつきあいを避けていました。
ファリサイ派や律法学者たちは神の戒めを守ることに熱心です。
それは神の戒めを守る者を神さまは祝福すると信じていたからです。
だから神の戒めは守らなければならないと考え、守る努力をしました。
そして神の戒めを守っている自分を誇りに思いました。
     ☆
→そんな彼らに主イエスは三つのたとえを語りました。
最初の二つのたとえのそれぞれの最後には、注目すべき言葉が書かれています。

ルカ 15:7
悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。

15:10
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。

→ここには、罪人が悔い改めたとき、天に大きな喜びがあることが語られています。

→最初のたとえには、羊を百匹所有している人が登場します。
この人は、羊が一匹がいなくなったら、
その羊を見つけるまで探します。
見つけたら近所の人と喜びを分かち合います。
この人は、99匹羊がいるから、
1匹くらいいなくなってもかまわないとは考えません。
どんな1匹も大切なのです。
いてもいなくてもいい、どうでもいい羊は一匹もいないのです。
どんな一匹も大切なのです。
いなくなった羊をあきらめずに捜し、
見つけて大いに喜ぶのです。

→2番目のたとえは、銀貨を1枚なくした女性が
なくなった銀貨を見つかるまで捜し、
見つかったら近所の人と喜びを分かち合うというたとえです。

→主イエスは、
神さまは、どんな人をも救いたいと考えるお方だと教えます。
そのために、つまり人々を救うために神さまは、
私を遣わしたのだと主イエスはおっしゃっているわけです。
ファリサイ派の人々や律法学者たちが見捨てている徴税人や罪人たちと食事を共にしているのは、
彼らを救うためだと主イエスは語っているのです。
     ☆
→次に、放蕩息子の物語に目を向けます。
ある人に息子が二人いました。
最初に、兄息子に注目します。
彼は弟が戻ってきたので父が宴会を開き、
肥えた子牛を屠ったと聞いて怒りに燃えます。
そして父に不満をぶつけます。
父の態度は不公平だというのです。

ルカ15:29~30
このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。
言いつけに背いたことは一度もありません。
それなのに、わたしが友達と宴会をするために、
子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒に
あなたの身上を食いつぶして帰って来ると、
肥えた子牛を屠っておやりになる。

→兄は、自分は息子として良くやっている。
弟は受け取った財産を使い果たすどうしようもない弟だ。
父の対応は不公平だと怒ります。
彼はファリサイ派や律法学者たちを指しています。
自分は神さまの前に立派に生きていると誇ります。
神さまは、立派に生きている自分をそれ相応にほめてくれてよいはずだと考えます。
だからこの兄息子は父に不公平だと怒りました。
彼にとって神とは、人間の行いに報いてくださる神です。
彼にとって神は、戒めを守る者を祝福する神です。
そして罪を犯し汚れている者を見捨てる神です。

→父は彼に言います。
お前はいつも私と一緒にいる。
私と一緒にいることがお前には喜びではないのか。

→32節。
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかったのだ。
祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。

→この兄息子は父と喜びを共有できませんでした。
この父は、神なのだと主イエスは言います。
ということは主イエスが伝える神と兄息子が信じている神は違うことになります。
神をいかなる方と考えるのか、理解の違いがあります。
     ☆
→次は弟息子に注目します。
彼は父のもとを離れることを決心します。
その理由は書かれていません。
彼は父の財産の中から自分の相続分を譲り受け
それを金に換えて遠い国に旅立ちます。
そして放蕩の限りを尽くして、
何もかも使い果たし、行き詰まります。
飢饉が起きて食べるのに困ります。
豚を飼う仕事をしましたが、
食べ物をくれる人はなく、本当に行き詰まります。

→こんなところで死ぬのか、と思った時に
父のもとでは、大勢の雇い人に有り余るパンがあったことに
彼は気づきました。
そこで父の家に帰る決心をします。
親の財産を使い果たしたのですから、合わせる顔がありません。
どの面下げて帰ってきたのか、と咎められても文句を言えません。
そこで「お父さん、わたしは天に対しても、
またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません」と
言うことにしました。

→そして家に帰ります。
まだ家から離れている時、彼の方に走ってくる人がいます。
何と父です。
そればかりか彼のもとに来ると、彼の首を抱きしめ接吻します。
彼は用意した言葉を父に言います。
「お父さん、わたしは天に対しても、
またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません」

→家に帰るや、父は僕たちに言います。

ルカ 15:22~23
急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

     ☆
→ここでこの弟息子の気持ちを想像します。
祝宴が終わって弟息子は思います。
財産を使い果たして帰ってきた自分を、
父が咎め、それゆえ、自分を使用人のひとりにすると言うなら、
父のその態度はよく分かる。
雇い人たちは、やがて自分が父から譲り受けた財産を使い果たしたことを知るだろう。
雇い人たちは自分のことを放蕩息子、道楽息子、どうしようもない息子だと思うかも知れない。
だから父が自分を雇い人のひとりにするなら分かる。

→しかし父は、自分に一番よい服を着せ、
自分の息子が帰ってきた、喜ぼうと言って、
喜びの祝宴を開いた。どういうことだ。
雇い人たちは、父は息子を甘やかしていると言うかも知れない。
なぜ、あんなに父は喜ぶのだろう。

→そういえば、まだ家から離れていたのに、
自分を見つけた父は自分のところまで走ってきた。
自分の帰りをずっと待っていたのだろうか。
自分は財産を使い果たして生活に行き詰まり、
みじめな格好をして家に帰ってきた。
自分は何の取り柄もない人間だ。
愚かな人間だ。
人から愛される資格などない人間だ。

→しかし、父はそんな自分を受け入れ、喜んでくれた。
父は、こんな自分を愛してくれているのか。
そればかりじゃない。
自分という存在を喜んでくれている。
自分がそばにいるだけで父は喜んでいる。
父に喜ばれるような人間ではないのに。
息子と呼ばれる資格もないのに。
でも父は自分のことを喜んでいる。
分かった、初めて父のことが分かった。
父は憐れみ深く恵みに満ち、慈しみに富んでいる。
自分が帰るのを忍耐強く待っていてくれた。
自分がどんな人間であるかに関係なく、
父は自分を一人の人間として大切にしてくれる真実な人だ。
自分にこの父がいることをうれしく思う。
この父と離れて生きることを選んだのは間違っていた。
これからは父と共に生きていこう。
     ☆
→この弟息子は父がどんな人か知りました。
主イエスは神がいかなる方かをたとえを通して語りました。
神はどんな人をも大切にする方で、どんな人をも愛する神です。
人が神のもとに立ち帰るのを何よりも喜ぶ方です。

→この後、この息子がどのように父のもとで生きるのか、
それは語られていません。
彼がこれからどのように生きるのか、
想像することは許されています。

→これからはこの父と共にいることを喜び、
この父と共に生きていこう。
これからは、この父に仕えることを喜び、
この父に仕えて生きていこう。
喜んで父と共に生きていこう。
喜んで父に仕えて生きていこう。

→しかし兄息子はそうは考えていません。
自分は一生懸命に父に仕えているのに、
父は報いてくれないと不満を言い表しました。
そんな彼に父は言いました。
「お前はいつも私と一緒にいる」。
兄息子にとっては、それがなんなの?です。
父と一緒にいることは喜びになっていません。
しかし弟息子にとって、父と一緒にいる、それが喜びです。
弟息子は、父を愛する息子となりました。

→最初に述べた二つのクリスチャンのタイプ。
その違いは、神を喜ぶか否かにあります。
神を愛するか否かにあります
お父さんが大好きな子どもは、お父さんの言うことに喜んで従います。
父親が好きではない子どもは、父親の言うことは、従わなければいけないからという理由で従うのではないでしょうか。

祈ります

天の父なる神さま
御言葉を感謝します。
私たちはイエス・キリストを信じ、罪赦されました。
あなたは私たちのことを喜び、神の子としてくださいました。
感謝します。
これからは喜んで神の子として生きていきます。
あなたの戒めは私たちを祝福するためのものです。
喜んであなたの戒めに従って生きて行きます。
私たちの歩みを支え、導いてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。