holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

3月25日の説教です。キリストの受難を覚えました。無牧のH教会に毎月一回奉仕することができて感謝でした。


聖書 マルコ 15:33-41節
説教 十字架はわがため
2018年3月25日


→今日はイエス・キリストの十字架を通して、マルコ福音書から福音を聞きたいと思います。
今日は、十字架の上でイエス様が叫ばれた言葉、
34節の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」を取り上げます。
これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。


→イエス様は、福音を宣べ伝える使命を神さまから与えられ、hosi
活動をなさいました。
しかしイエス様に敵対する勢力の働きにより、
十字架で処刑されることとなりました。
エス様は、十字架につけられるという予想もしなかった事態に追い込まれ、
「神さま、なぜ私をお見捨てになったのですか」と
叫んだのでしょうか。
そうではありません。


→イエス様は既に弟子たちに三回、ご自分が苦しみを受け、殺されることを語っていました。
十字架刑で亡くなる、それは神さまの御心、神さまのご計画であり、
エス様はそれを受け入れておられたのです。
しかし、十字架の上で死ぬ間際、
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。
この後、イエス様は大声で叫んで息を引き取られたと37節にあります。
エス様は何と叫んだのかは書かれていません。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、
この言葉に注目します。

→イエス様は、十字架にかけられる前日、ゲッセマネの園で祈られました
その時イエス様は、「ひどく恐れてもだえ始め」た、と書かれています。
エス様は差し迫ったご自分の死を思われたのです。
死の恐怖がイエス様に迫ったのです。
そして今、十字架の上でイエス様は、
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。
これは詩編22篇の言葉です。
エス様は詩篇の言葉を用いて、叫ばれたのです。
そしてイエス様は、まさに命がつきようとしています。
しかし意識ははっきりしています。
エス様は、死のうとしている自分が、神さまから見捨てられていることを意識しています。
神さまに見捨てられるということがどういうことかを体験しているのです。
神に見捨てられる絶望を感じておられます。
神に見捨てられる、これが罪に対する神の裁きです。
この裁きがいかなるものかをイエス様は十字架の上で味わい、
あの叫びをなさったのです。


旧約聖書を読むと、神さまは信じる者を見捨てない神です。
同時に、神さまに背く者を見捨てる神であることが分かります。
創世記にヤコブという人物が登場します。
彼はある時、家にいられない事情が生じ、家を出ることになります。
そして野宿をしますが、彼の耳に神の声が響いてきます。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創世記28:15)。
神はあなたを見捨てないとヤコブに約束されました。
あるいはイスラエルの民を導いたヨシュアに対して神さまは語ります。
「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」(ヨシュア1:5〜6)。
しかし、イスラエルの民が神さまに背き続けた時、
神さまは彼らを見捨て、
イスラエルの国は滅びてしまいました。


→神に見捨てられる、それは罪に対する裁きです。
見捨てる、それが神さまの裁きなのです。
そしてイエス様は十字架の上で、神さまに見捨てられて亡くなりました。
エス様の死は、イザヤ書53章の実現だと言われます。
53章には何が書かれているのでしょうか。
10節.「彼は自らを償いの献げ物とした」。
昔、イスラエルの人々は罪を犯した時は、いけにえを献げました。
自分の命をもって罪を償う代わりに、
いけにえの動物を殺し、それを献げて償いとしました。
神さまは、そのようにして罪を償うようにお命じになったのです。
そして今、イエス様は、「彼は自らを償いの献げ物とし」ました。
エス様が十字の上で亡くなるとは、
自分を、罪を償うためのいけにえとしたということです。
では誰の罪を償うのでしょうか。


→11節。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」。
「彼らの罪を自ら負った」。
つまり、イエス様は人々の罪を償おうとしたのです。
罪を償うための動物のいけにえではなく、
自分自身をささげたのです。
エス様は人々の罪を背負い、
人々に代わって罪に対する罰、神の怒りを受けられたのです。
エス様が人々の身代わりになって罪に対する神の怒りを受けられました。
その結果、人々は罪のない者と見なされ、正しい者とされるのです。
イエス・キリストのおかげで私たちは正しい者とされ、
神との間に平和が与えられました。
主イエスを信じる人は、罪が赦され、神の目に正しい者とされました。
イエス・キリストの十字架の死は、
私たちの罪に対する赦しを与えます。

→この罪の赦しは、私たちが繰り返し、繰り返し聞いてきたことです。
今日の礼拝において司式者が祈られましたが、
その祈りの中でも、私たちは罪赦され、感謝しますと祈られました。
今日は、罪の赦しについて、
さらに深く聖書から教えられたいと思います。
それによって、私たちの信仰が深められたいと願います。
そもそも罪とは何でしょうか。
罪とは、悪いことをすること、
神の戒めに背くことと考えることが多いのではないでしょうか。
これは聖書が告げる罪理解からずれているのではないか、
と私は考えています。
もし罪を悪いこと、神に背くことをすると理解すると何が起きるのでしょうか。
信仰に生きるとは神の戒めを守ることになります。
すると問題が起きます。
私自身にその問題が起きました。何が起きるのでしょうか。
信仰生活を続ける中で、
自分はそれなりに神の戒めを守っている、と考えてしまうのです。
してはいけないと禁じられたことはしません。
人を殺したり、姦淫したり、盗みはしません。
頭では自分は罪人と考えますが、心はそうは思わないのです。
聖書にも律法学者とかファリサイ派の人々が登場します。
彼らも自分たちは神の戒めを守っていると考えています。
あるいはこれとは逆に、
自分は神の戒めを守れていない、罪深い者だと考える人もいます。
イエス・キリストによる罪の赦しを受けているのに、
自分は罪深い者と考えてしまうのです。
自分は信仰者として、神の戒めをまあまあ守っていると考えたり、
自分は神の戒めを守れていない罪深い者だと考えるのも、
違っているように思います。


→罪を知るには旧約聖書を読むのが一番いいと思います。
創世記の3章にはアダムが、神さまから取って食べてはいけない言われた木の実を食べて罪を犯したと書かれています。
取って食べるなと神が禁じられたことを破ったのです。
神の言いつけを守らなかった、つまり悪いことをしたのです。
しかしその前に、彼は神をないがしろにしたのです。
神の教えを守らなくてもいいと考えたのです。
彼は高慢になったのです。
悪いこと、神の戒めを破る時には、
その前に神に背き、神を軽んじることが
人間の心の中で起きているのです。
だから旧約聖書に登場する預言者たちが、罪を犯している人々に悔い改めを促す時には、「神に立ち帰れ」と語るのです。


→紀元前10世頃、イスラエルダビデという王がいました。
彼は人妻と姦淫を行い、
彼女の夫を戦場で戦死するように仕向けたのです。
自分では直接手を下しませんでしたが、
彼は彼女の夫を殺したのです。
彼は姦淫と殺人の二つの重大な罪を犯しました。
ダビデは神に罪の告白をします。
でも彼は、「私は姦淫を犯しました。人を殺しました。
お赦しください」とは祈りませんでした。
彼は祈ります。「あなたに背いたことを私は知っています」。
「あなたにあなたのみにわたしは罪を犯し、
御目に悪事とされることをしました」。
どんな悪事をしたのかを語るのではなく、
彼自身の神さまとのかかわりを述べています。
神さまに背いた、神さまに対して罪を犯した、と語るのです。
彼は神さまを意識しているのです。


→罪とは何なのか。定義するのは私にはむずかしいので、
聖書の言葉で答えたいと思います。
イザヤ書53章6節。
「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた」。
羊の群れは本来、羊飼いに導かれるものです。
羊は羊飼いに従うのです。
羊飼いは羊を守り養うのです。
しかし羊が羊飼いから離れ、自分の行きたい方角に向かっていく、
それが罪だとイザヤは言います。
つまり神から離れるのです。神に背を向けるのです。
神なしに生きようとするのです。
あるいは神を利用するのです。
願いごとをかなえてもらおうとするのです。
ですから、道徳的に何も悪いことをしていなくても罪を犯す可能性はあります。
神さまのことは考えずに生きていけば、すべてが罪となります。
だから預言者たちは、悔い改めを迫る時、神に立ち帰れと語ったのです。

→では次に、赦しとは何でしょうか。
たとえで考えます。
夫婦のどちらかが相手を裏切ったとします。
不倫です。
そして自分の過ちの赦しを相手に求めたとします。
何が起きるのでしょうか。
どうしても赦せなければ、
つまり、私はあなたと夫婦として生きて行くことはいやだということになりますから、
夫婦関係は継続できません。
しかし赦すなら、それは私はあなたと夫婦として生きていくことを拒まない、いやあなたを伴侶として受け入れ、夫婦として生きていくとの意志を表明することになります。
そこには夫婦の関係の回復があります。そこには和解があります。
赦しとは関係の回復を意味します。


→旧約という言葉があります。旧約聖書の旧約です。
古い契約の意味です。
神さまは、イスラエルの民と契約を結ばれました。
神さまは、「私はあなたがたの神となる」と約束されました。
イスラエルの民は、
「私たちはあなたの民となります」と約束しました。
お互いに約束することによって契約が成立します。
神さまはイスラエルを神の民として守り導くと約束したのです。
イスラエルの民は、神の戒めに従うと約束したのです。
ここに神とイスラエルの民の間に、互いに関わり合って生きていくという関係が生まれました。
神とその民という関係です。


イスラエルの歴史の中で、イスラエルの民が神に逆らい罪を犯します。
すると神と民の関係が壊れます。
神さまからすれば、自分に逆らう民とよい関係を持ち続けることはできません。
民は罪を犯すことによって神との関係を壊します。
人間には、神なしに平気で生きていけるという面がありますから、
イスラエルの民が罪を犯し続けても不思議ではありません。
しかし自分の罪に気づいた時、民は罪の償いのいけにえを献げ神に赦しを求めます。


→聖書によると、民が赦しを求める時、憐れみ深い神は赦されます。
神さまが彼らを赦すとは、どういうことでしょうか。
今一度、イスラエルの民の神になることを意味します。
罪を犯したイスラエルの民に対して、
「お前たちのことは知らない」「お前たちがどうなっても私には関係がない」と言わないのです。
罪を犯したイスラエルの民を受け入れる、それが神の赦しです。
神とイスラエルの間の壊れた関係を元に戻すのです。
罪の赦しは、見方を変えると和解なのです。
私たちは、罪の赦しは和解であることをきちんと考える必要があります。
罪の赦しが和解なので、つまり神との関係が回復されたので、
イスラエルの民はもう一度、神の民として生きることができるのです。
彼らは神に立ち帰ることが許され、神の民として生きることを始めます。
罪を悔い改めるとは、悪いことを繰り返さないという決心ではなく
神に立ち帰るとの決心なのです。
神の民として生きるとの決心です。


→神と私たちの関係を聖書は、羊飼いと羊の関係でたとえています。
私たちは羊です。
私たちは自分の好き勝手な方向に向かって生きていました。
それが罪でした。
そして私たちが神である羊飼いに従うと告白するなら、
神は受け入れ、私たちを大切な羊として受け入れてくださるのです。
受け入れてくださる、これが神の赦しです。
羊飼いと羊の関係が回復します。
ですから赦しは和解なのです。
そして羊飼いと共に、羊飼いに従って生きる歩みが始まります。
赦しが和解であることを私たちはもっと強く意識する必要があると思います。
イエス・キリストの十字架の死、主イエスがご自分の命を私たちのために犠牲にしてくださったのは、
神さまと私たちの間に和解をもたらすためでした。
神さまは、私たちの神となってくださるので、
神と共に生きる歩みが始まるのです。
神を喜び、神に導かれることを喜びとする歩みが始まります。


→主イエスが語られた有名なたとえに放蕩息子のたとえがあります。
ある農夫がいました。広い土地を持っているので大地主です。
彼には二人の息子がいました。
ある時、下の息子が父に言うのです。
私が譲り受けるべき財産をいまください、と。
父親は二人の息子に財産を譲ります。
下の息子は財産をすべてお金に換え、家を出ます。
そして彼は自分の好きなようにして生きるのです。
やがてすべてのお金を使い果たし、生活に行き詰まります。
すると彼は我に返り、自らに言います。
「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました』」。


→戻ってきた息子は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と言います。
しかし父は、息子が戻ってきたと喜び、宴会を開きます。
父は戻ってきた息子を赦し、受け入れました。息子の存在を喜ぶのです。
そして父と子が共に生きる生活が始まりました。
財産をすべて使い果たした息子を責めることもなく、
お前は私の息子ではない、などと言わず、
息子を歓迎します。これが赦しです。
息子は父の家で父と共に生きることになります。
息子はこれから父と共に生きることになります。
息子は父と一緒にいること、父と共に生きることを喜びとするようになりました。
これが赦されて生きる、ということです。

→最後に、イエス様の復活に目を向けたいと思います。
主の十字架と復活を切り離して考えることはできません。
神さまは、主イエスを信じる者の罪を赦してくださいます。
神さまの救いの恵みは罪の赦しにとどまりません。
神さまは主イエスを信じ洗礼を受ける人を
新たに生まれ変わらせてくださいます。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」とあるとおりです。
私たちは洗礼を受け、キリストに結ばれ、新しく造られた者とされ、神の子とされます。
神の子とされた私たちの前に、罪に打ち勝つ道が開かれました。
罪に勝利できる道を神さまは備えてくださいました。
神の前に、神と共に歩む者にふさわしく歩めるように
私たちは、罪から解放されて歩むことができる者とされました。
救いの恵みは罪の赦しだけではなく、罪に勝利する恵みを含みます。
キリストの十字架は、私のため、あなたのため。
罪の赦しと罪に勝利する道をイエス様が、
あなたのために、私のために備えてくださいました。