クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャン成長(4)義とされた者として生きる

 クリスチャンは神の目に義とされた存在です。神の前にクリスチャンは正しい者であり、罪に定められない存在です。

 私たちは普通、イエス様が十字架の上で人類の罪を背負い、その罪に対する神の怒りを受けて下さったのでイエス様を信じる者はその犯した罪がすべて赦されると信じます。過去に犯した罪も将来に犯すであろう罪も、今犯している罪も赦されると信じます。私たちは自分の罪の償いのために何もすることはありません。

 ところがパウロは「罪の赦し」を語りません。それよりも信仰によって義とされることを語ります。パウロはイエス・キリストの十字架の死による贖いの死に「罪の赦し」ではなく、別なことにつまり、彼は「義とされる」ことに注目しています。

ローマ3:23~24
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

ガラテヤ2:16
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

フィリピ3:9
わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

 パウロは義とされることを語ることによって、キリストを信じる者と神との関係に注目します。人はイエス・キリストを信じることにより、その犯した罪を赦されますが、罪が赦されることによって、神と関係が正常化するのです。

ローマ5:1~2
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 神との間に平和を得ているのがクリスチャンです。

 たとえで話をします。ここに一組の夫婦がいて、どちらかが相手に対して不誠実なことをして、相手を傷つけたとします。すると夫婦関係にひびが入ります。下手すると夫婦関係は破綻します。そこで相手に対して謝罪をし、相手が赦したとします。すると夫婦関係が回復します。赦さなければ、夫婦関係はひびが入ったまま、もしくは破綻します。

 パウロは、神との関係の回復に注目します。これは大事な視点だと思います。あまり注目されていないのではないかと危惧します。

 私たち異邦人は、もともと神を信じてはおらず、神との関係はありませんでした。しかし神の前に罪を犯してきた事実は変わりません。私たちは自分の罪に気づかされ、罪を悔い改め、洗礼を受け、クリスチャンになりました。その時、罪の赦しを受け感謝しました。そのような私たちに対して神は「私はあなたの神となる」と宣言されます。それが「義とされることだ」とパウロは語っているように思います。

 イスラエルの人たちは神を信じていたので、罪を犯せば神との関係にひびが入りますが、罪を悔い改めれば神との関係が回復します。そのことは旧約聖書に繰り返し書かれています。イスラエルの民も異邦人である私たちもイエス・キリストを信じて、神との関係に生きることになります。つまり神との交わりに生きることになります。

 「わたしはあなたの神となる」と神は語られ、クリスチャンは「わたしは神の子となります」と語り、神と信仰者の関係、交わりが成立します。新約聖書ではこれを新しい契約と呼びます。

 するとどうなるのでしょうか。私たちが罪を犯すとその罪のゆえに、神さまは契約を破棄されるのでしょうか。旧約聖書を読むと、イスラエルの民は何度罪を犯したことでしょうか。金で牛の像を造り、またエルサレム神殿に異教の像をまつったこともあります。しかし神さまは契約を破棄することはなさいませんでした。神さまは契約に真実な方です。契約を重んじます。神さまは罪を犯す者が悔い改め立ち帰るのを忍耐深く待つお方です。そのことが旧約聖書に証しされています。

 神さまは私たちに対しても、あなたを義とし、あなたの神となると宣言してくださいました。約束してくださいました。神さまは聖いお方ですから、罪人と契約を結ぶことはしません。私たちが罪を犯したなら、神は私たちに悔い改めることを求められますが、それは神さまとの関係を維持するためです。神さまは、私たちを罪に定め、契約を破棄することはなさいません。クリスチャンは神の前に義とされ、正しい者とされているのです。

 それゆえ私たちは、義とされたことを喜び、神の子とされたことを喜び、神の子として生きていきます。罪に定められることを恐れる必要はありません。神の子とされたことを感謝して生きていきます。「わたしはあなたの神となる」と神さまは約束されます。だから私たちは「わたしは神の子として生きていきます」と告白します。

 勿論、神さまはいやいやながら私たちの神となってくださるのではありません。神さまは私たちを喜ばれます。

ルカ15:4~7
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。

だから、義とされた私たちは、神の子として喜んで生きていきたい!

 

クリスチャンは神の前に義とされている、というアイデンティティーについてはこちらを

 

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