クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信仰によって義とされる?

 説教原稿を書きながら、書くと言ってもキーボードをたたきながらですが、自分が伝えようとするメッセージに自分でも心が震えることがたまにあります。先日の説教でそんな経験をしましたので、メッセージのポイントだけお伝えしたいと思いました。

 キリスト教の基本的な教えに信仰義認の教えがあります。イエス・キリストを信じる者はその信仰のゆえに、神に義と認められるという教えです。人は神の前に罪を犯し、罪に対する神の怒りを身に受けねばなりません。しかしイエス様は私たちの身代わりに十字架で、罪に対する神の怒りをお受けになりました。イエス様による罪の贖い(償い)を信じる人を神は、正しい者と認めてくださるという教えです。

 人はイエス様を信じ、義とされ、信仰者として生きていきます。信仰者として生きていく中で、罪を犯すことがあります。全く罪を犯さないで生きることはできません。時に誘惑に負けます。神に信頼すべきと分かっていながら信頼できないことがあります。信頼して大丈夫なのか、と不安になり、自分の力で生きようとします。神が共にいてくださると信じつつも、神は私のために働いてくださるのだろうか、と疑ったりします。苦しいことに直面した時は、神を恨むことさえあります。そんな私たちを神さまが見たら、神さまは私たちのことをどう思うのでしょうか。そんな私たちを神さまは、義と認めてくださるのでしょうか。

 もし神さまが私たちを義としてくださるなら、私たちは安心するかもしれません。恵みによって義とされる、うれしいです。そして私たちは今までと同じように歩みます。罪を犯します。誘惑に負けます。神に信頼することに不安を覚え、自分の力に頼ります。神を疑い、神を恨むこともあります。それでもなお私は義とされていると信じていいのでしょうか。神さまは私たちを甘やかしているように思えます。

 では、私たちは義とされず、罪を責められるのでしょうか。そうすると神さまは、恵みの神ではなくなります。それとも信仰に入る時は恵みによって罪を赦し義とすると甘い言葉を語り、信仰に入ったら、罪を犯す者は裁くというのでしょうか。

ローマの信徒への手紙8章1節でこう述べています。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。

あるいは

「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8:33~34)。


 信仰者である私たちは、罪に定められることはありません。これは信ずべきことです。

福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1:17)

  神さまの前に私たちは義です。義とされていると信じます。では神さまは私たちを甘やかしているのでしょうか。それも違います。神さまは、もっとすばらしい道を信仰者のために用意しておられます。(続く)

 

f:id:holala:20191115224146j:plain

干し柿 こんな吊るし方!