私たちは洗礼を受けクリスチャンになります。私たちはイエス・キリストを信じる決断をして洗礼を受けます。イエス様を信じるとは、イエス様は十字架で、私の罪を償うために死なれたことを信じることです。イエス様は全人類の罪を背負い、罪に対する神の怒りを十字架の上で受けられました。それゆえ、イエス様を信じる者は、その罪が赦されます。このことを信じ、イエス様を救い主と信じ、私たちは洗礼を受けます。洗礼を受けた結果、私たちは罪が赦されます。
パウロはクリスチャンのアイデンティティーについて、神の前に義とされた者、神の前に正しい者と語ります。単に罪が赦されただけではなく、神の前に、神の目に、正しい者とされると語ります。
ローマ3:24~25
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
私たちが義とされるということは、神さまは私たちが犯した罪を忘れるということです。新しい契約について預言したエレミヤはこう語ります。
エレミヤ31:34
わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
ヘブライ人への手紙はイエス・キリストの働きを述べる箇所でこのエレミヤ書を引用して、次のように書いています。
ヘブライ10:17
もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。
神は、人の罪を赦し、心に留めず、思い出しはしないのです。言い換えると、忘れる、ということです。ということは、神の前に信仰者は正しい者であるということです。それゆえ、パウロは次のような大胆な宣言をします。
ローマ8:1
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
クリスチャンとは、神の前にそして神の目に正しい者であり、罪に定められることがない者なのです。
かつて夫婦喧嘩をしたとき、妻は「あの時、あなたは~した」「あの時、あなたは~した」「あの時、あなたは~した」と芋づる式に私を責める言葉を繰り出しました。でも神さまは、私たちの罪を忘れられるのです。驚くべきことです。
私たちは洗礼を受け、イエス・キリストに結ばれます。するともう罪に定められることがないと聖書に書かれています。もはや自分は罪深い者であると考える必要はありません。クリスチャンのアイデンティティーは「罪深い者」ではなく「神の前に正しい者」なのです。