信仰者のアイデンティティーは「神の前に正しい人」であり、神から罪に定められることがないと聖書は教えています。それならクリスチャンが罪を犯したらどうなるのかと疑問に思う方、あるいは罪に定められないなら罪を犯そうではないか、と言う人が出てくるかもしれません。
罪に定められないなら罪を犯そうと考えるのは論外です。罪を犯そうと考えることはクリスチャンの歩みとしてあってはならないことです。罪を犯したらどうなるのでしょうか。罪に定められるのでしょうか。やっぱり「罪深い者」というのが信仰者のアイデンティティーなのでしょうか。
ヨハネの手紙一2:1
わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
つまりキリストが御父のもとに弁護者としておられるということは、罪を犯した私たちが悔い改めて罪の赦しを求めれば赦しは得られるということです。
改革派の教会が重んじているウェストミンスタ信仰告白は「義認」の項で次のように語ります。
神は、義とされる者たちの罪をゆるしつづけられる。それで彼らは義とされた状態から決して落ちることはできないのではあるが、それでも彼らは、自分の罪によって、神の父としての不興をこうむり、彼らが自らへりくだって、自分の罪を告白し、ゆるしを乞い、自分の信仰と悔い改めをもう一度新しくするまでは、神のみ顔の光をとり戻せないこともありうる。
(『ウェストミンスター信仰基準』 日本基督改革派教会大会出版委員会編)
クリスチャンは義とされた状態から決して落ちることはできないとあります。クリスチャンはたとい罪を犯しても義とされた人であることには変わりがないのです。しかし罪を告白し、悔い改めないのなら、神の好意を受け取ることができないことはありうるとしています。神は義なる神、正しい方ですから、罪を見過ごすことはしません。しかし神は、罪を犯すというクリスチャンの失敗を忍耐をもって見守り、クリスチャンが罪を悔い改め、罪と闘い、罪に打ち勝つことを待っておられると私は考えています。クリスチャンが罪に打ち勝つことができるのは、神の助け、神の恵みによります。