神をたたえる
キリスト者が神をたたえること、賛美することは大切なことと教えられます。でもどのように神をたたえたらよいのか。
讃美歌11番の1節の歌詞は神を賛美する心を求めています。 O for a heart to praise my God,
神の国で永遠の命に生きるとは、神の栄光を仰ぎ、、神をたたえることと言ってよいと思います。そして私たちも罪のないキリストの似姿に変えられ、神との永遠の交わりの中に生きることとなります。
この世で何が起きようと神さまを讃えて生きていきたい、それが年初の志です。
キリストに結ばれたキリスト者の特徴として、神を知り、神を喜び、神を誇ることがあります。このことを主イエスの語られたたとえが明らかにしています。
讃美歌を、もとの英語の歌詞で味わって気づいたことがありました。私に課題を突きつけました。
そこで思うことは、何が起きても、何があっても一日の終わりには神さまをたたえ、感謝できるなら、それが幸いなのではないかと。
秋の日に思うこと。老いを生きる日々とは、何のために生きるのかを確認する日々です。
神さまに与えられた賜物を認めることは大切だと思います。私に与えられたのは追求する心でした。
日々聖書を思いめぐらす恵みの紹介。「わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」とのイエス様の言葉に反応した私。
「神さまに信頼しているのになぜ」「だから神さまに信頼する」。二つの立場があります。
神さまが大きなプレゼントをある人を通して与えてくださいました。聖地旅行(イスラエル旅行)の機会が与えられました。
雑草と呼ばれてみむきされない野草を慈しむ心は、神の似姿に造られた私に与えられたもの。野草を通して神の慈しみを見る
聖書を通して私を導いてくださった神さまを何と呼んだらいいのか。
イエスは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うか」と問いました。私は神さまをどのような方として体験的に知っているのか。私の神告白は?
牧師になった最初の年、神さまはある光景を私に見せてくださいました。とても大切なことをその光景を通して教えられました。
私の牧師人生は、多くの人との出会いに支えられています。この出会いを神さまが与えてくださいました。
幼い日、私の人生に暗い影が落とされた。そこから私に対する神の導きが始まりました。
パウロは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」と神をたたえました。
食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光のためにしなさい。神の栄光のために食べるってどういうこと?
讃美歌の歌詞に共感する体験を振り返ることにより深まる讃美歌の味わい。
最近讃美歌を原語で聞いています。原語で味わい、自分の信仰の肥やしにしています。
神さまをたたえるとは、自分の信仰を告白することではないかと考えるようになりました。
日々の出来事や感じたことなどを記録し、それを振り返るとき、神さまの恵みを感謝するとき、神さまをたたえる信仰が育つのではないか、と思ったことです。
三日ほど前にルカ福音書の最後、主イエスの昇天場面を読みました。その時は黙想をして時間切れ。今日はその続き、適用です。主イエスは弟子たちの目の前で天に上げられ見えなくなりました。主イエスは目に見えない世界に行かれました。マリアから生まれ、十…
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アニメ「ピアノの森」を見て気づいたことがあります。何事も中途半端であった私に心から熱中し追究するものを与えてくださっていたのです。感謝です。
一昨日、ある会で、「伝道者の歩みを振り返って」と題してお話をしました。伝道者としての最初から隠退の日までずっと説教に力を注いできました。一番最初の赴任地は三重県の鳥羽教会でした。最初の説教は徹夜して説教原稿を書き上げたことを覚えています。…
何が分かっているかというと、信じる者にとって確かさは聖書の言葉にあるということです。確信をもって信じることができる根拠は聖書にあるということです。確信の根拠を自分の中に持つことはできません。 確信をもって信仰に生きること、それはいつも私の課…
隠退牧師の集いの開会礼拝で説教をし、一つの問題提起をしました。私たちは祈りにおいて、神さまに感謝をささげますが、神さまをたたえることは少ないです。これは何を意味しているのか、という提起です。 会が終わり、一人の方から「どのように神さまをたた…