「老いの日々は、代わり映えしない日々の暮らしです」と一昨日のブログに書きました。そこに書いたことは私の正直な思いです。
その後、あるビデオを見たことがきっかけで私の中にあるもう一つの思いがはっきりしてきました。老いの日々は、いつまでも何かを追求することができる日々ではなく、何もできなくなる日々かもしれないし、何が起きるか分からないし、何か起きればそれは大抵試練となり、これまでの歩みに大きな変化がもたらすかもしれません。
そこで思うことは、何が起きても、何があっても一日の終わりには神さまをたたえ、感謝できるなら、それが幸いなのではないかと。単調かもしれない、代わり映えしないかもしれない、そんな日々の中にあって、一日の終わりに神さまをたたえ、感謝できるなら、それは素晴らしいこと。そんな日々を暮らしたいと思いました。
でもそんなの、きれいごとよ、と人は言うかも知れません。伴侶の介護で疲れ果てたり、伴侶を天に送り寂しさを覚えるとき、また病気で入院したり、本当に一日の終わりに神さまをたたえ、感謝できるのか。それは分かりません。でもこの願いを持ち続けたいと思います。
ミレーの晩鐘という絵を思い出します。夕方教会の鐘が鳴り、畑仕事をしていた農家の夫婦が手を休め神に祈っている姿を描いています。私たち信仰者には、世の終わりまで共にいてくださる方がおられます。
マタイ28:20
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。