今私はローマの信徒の手紙を読み始めています。手紙の出だしでパウロはローマにいる信徒たちに「恵みと平和」を祈っています。
ローマ 1:8
神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
そもそも恵みとは何でしょうか。恵みは神さまの一方的な好意として私たちに与えられるものと教えられます。つまり私の行為に対する報酬として与えられるものではなく、神さまの好意として与えられ、私たちは感謝して受けとることができるものです。一番の恵みはイエス・キリストを信じることによって得られる救いです。
日々の生活の中で、何が神さまの恵みなのでしょうか。私たちは何を基準にして、神さまの恵みが与えられたと考えるのでしょうか。一般的には、自分が素直に喜べるもの、感謝できるものが恵みとなるのではないでしょうか。
しかし、自分が素直に喜ぶことができないことは恵みではないと断定してよいのでしょうか。私たちの人生には試練がおきます。聖書には試練に遭うときは喜べとの教えがあります。喜ぶのなら、試練は恵みとなるのではないでしょうか。
ヤコブの手紙 1:2
わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
素直に喜ぶことができない試練も、神さまのご支配の中で起きることとして、恵みとして受け入れることができます。聖書には試練によって私たちの信仰が本物になっていくとあります。試練によって信仰が本物となっていくのなら、試練は恵みとなります。
ペトロ一 1:6~7
今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
とはいえ、なぜこのようなことが起きるのかと神さまに対して疑問を抱き、時に神を恨みたくなるようなこともあるのも事実です。
ハイデルベルク信仰問答には、神の摂理(神の御支配)を次のように語ります。
雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。
私たちの身には様々なことが起きます。どんなことも、「私たちの身に起きてもよい」との父なる神さまの許可のもとで起きていると教えられます。だからといってすべてのことが恵みであるかと言えば、恵みと受けとめることのできないこともあると思います。
そこで何を恵みとするのかは、人によると考えます。自分にとって好ましいことを恵みとする人がおり、好ましくなくとも神が恵みとして与えたことがあるかも知れないと考える人もいると思います。
確かなことは、何を恵みとするのか、恵みの範囲が大きいほど、心の中に平和は豊かに宿ることです。自分にとって喜ばしいことだけを恵みとするなら、喜べないことが起きると心の平和は乱されることになります。
今、心を痛めつつ祈っていることがあります。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻を覚えての祈りです。ニュースを見て心を痛める日々が続きます。戦争が終わり、ウクライナに平和が戻るように祈っても、なかなか実現しそうにもない現実の中で、心の中に割り切れない思いが残ります。
しかし今日、ロシアの軍事侵攻を覚えて祈ることを恵みと受けとめてみようとの思いに導かれました。