クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

御言葉にゆだねる

 年配の方が「信じるしかない」と話された言葉が思い起こされます。歳をとると死が自分の身にいつ起きても不思議ではないと思うようになります。私はそうです。

 キリスト者には神の国に迎えられるという希望が与えられています。聖書にこの希望が書かれています。聖書が語るこの希望は信じて大丈夫なのだろうか、との思いが生じてきます。そこであの「信じるしかない」との言葉が出てきます。

 神の国からこの世に戻ってきた人がいないので確かめることはできません。だから信じるしかないのです。私にも「聖書が語るこの希望は信じて大丈夫なのだろうか」という思いはあります。どうしたら「信じて大丈夫だよ」と自分に言えるのかは課題です。

 光に向かって歩けば、後ろに影ができます。前を向いている限り影は見えません。信仰者にとって光は希望です。そして影は疑いです。疑いはある、でも、それにもかかわらず信じる、それが信仰だと考えてきました。

 最近思うのは、ゆだねるということです。実は若い時からゆだねることは考えてきましたし、神にゆだねる歩みをしてきました。地上の人生で、神にゆだねる歩みを続け、神にゆだねて大丈夫だと分かれば、老いたとき、自然に神の国の希望に生き、死後を神にゆだねることができるのではないかと考えてきました。自分の死後について神にゆだねることができるだろうと予測してきました。

 でもそうではないことが分かりました。地上の生活については、老いを生きる信仰者が沢山いますから、神にゆだねて大丈夫だという思いを持つことができます。しかし老いた今、どうしたら「信じて大丈夫だよ」と自分に言えるのかは課題です。

 そして今、聖書の言葉に身をゆだねることが自分にできる精一杯のことであると思います。

ヨハネ 14:1~3
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 「あなたがたをわたしのもとに迎える」との主イエスの言葉にゆだねる、それが自分にできる精一杯のことであると考えることにしました。だから精一杯ゆだねていこうと思います。

ヒレタゴボウ 散歩道

 

自分自身を神に献げる

ローマ 6:13
また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。

 ここに「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ」とあります。12章1節には、よく知られた言葉があります。

ローマ 12:1
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

 自分自身を献げる、自分の体を献げる、と言葉の違いがあります。この6章の場合は、「自分自身を死者の中から生き返った者として」とあります。自分は死者の中から生き返ったものという認識、自覚が前提となっています。

 そこで我が身を振り返りました。私はどのように、自分が死者の中から生き返ったものと自覚しているか、です。

 自分を死者の中から生き返った者と自覚できることは経験しています。最初は、洗礼がきっかけです。洗礼を受けてキリスト者として生きるようになりました。聖書を読み、祈り、神を礼拝する人間となりました。以前の私はこのようなことは全くしていませんでした。神と無関係に生きていた人間は死んで、神を大切にして生きる人間に私は生き返りました。

 さらに牧師となり説教の準備に努力しました。あることがきっかけで神が生きて働かれる神であると知りました。聖書は神の言葉であると確信し、その時から確信をもって説教できるようになりました。それまでのどこか不安げに説教していた自分が死んで、確信をもって説教する新しい自分に生き返りました。

 さらに私は聖書すなわち神の言葉を自分の思考の土台とする人間になりました。人生の中で培ってきた自分のものの見方、考え方、学んだこと、身につけた知識、経験、思想信条などよりも、まずは聖書はどう言っているか、と聖書をもとに物事を考える人間になりました。

 そしてロマ書の6章13節は、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げなさいとあります。今、あらためて自分自身を神に献げなさいと神が言われてるとしたら、どのような自分が死んで生き返ってどのような自分になり、その自分をどのように献げたらよいのか、と問いが突きつけられたように思いました。

ヒガンバナ 散歩道

 

 

人の子は何もの?

 最近、栄光という言葉に関心が向いています。それで詩篇8編を読みました。詩人は語ります。

詩編8編4~5節
あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。

 詩人は、神の顧みを受ける人間は何ものなのかと語ります。人はなぜ、神の顧みを受けるのかと不思議に思っています。

そして詩人は語ります。

8:6~7
神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。

 神は人を造り、神によって造られたものをすべて治める権威を人間に与えました。このように人間を顧みられる神。このように顧みられる人間は何ものなのかと詩人は語ります。

 新約聖書を読めば、神は私たち一人ひとりを顧みてくださると言ってよいと思います。それなら、「そのあなたが御心に留めてくださるとは/私は何ものなのでしょう」と言うことができると思います。そこで思います。自分はどれほどの神の顧みを受けているのか、と。

 信仰を得たこと、伝道者に召されたこと、その務めを30数年近く果たしてきたこと、家族を与えられたこと、数えれば、それぞれが神の顧みを受けていることのしるしです。

 同時に、もっと顧みて欲しいな、との思いがあることを告白します。欲張りなのか、神の顧みにまだまだ気づいていないことが多いのか。それは分かりませんが、詩人のように、「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう」と驚きを語ることのできる信仰者になりたいです。

(来週水曜までブログ休みます)

サネカズラ 散歩道



 

殺してはならない

 十戒に「殺してはならない」とあります。イエスは「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と語り、兄弟に対して腹を立てたり、『バカ者』と言うことも殺したに等しいと教えられました。

 人を殺すという行為をしていなくても、兄弟をののしることは同じ罪だと教えました。このように主が教えられたのは、当時のファリサイ派、律法学者たちが自分たちは神の戒めを守っていると誇っていたからです。

 イエスのもとに「永遠の命を得るにはどうしたらいいですか」と教えを求めてきた人がいました。彼も自分は律法を守っていると自信を持っていました。

 大切なのは、その戒めの精神、その戒めの背後にあるものです。他者に対して攻撃的な態度を取るなとイエスは教えておられると思いました。

 そして思いめぐらすことしばし。自分の中にも、殺人などしていない、他者に対して攻撃的な態度で振る舞っていない、と自分の義を満足する気持ちがあることに気づきます。

 「殺してはならない」という神の教えを「兄弟に対して腹を立てるな」「兄弟を馬鹿者と言うな」と言い換えると、教えの精神を忘れて、私はこれを守っていると自分の義を誇る誘惑があることを思いました。

 今、ロシアがウクライナに侵入し戦争を起こしています。戦争は人の命を奪います。ロシアの大統領は大義名分をつけて人を殺すことを決断したのです。人を殺してよい理由は何一つないと信じます。

 この国でも殺人事件は日常的に起きています。このような現実を目にしながら、心の片隅に、自分は殺してはいないと、イエスの教えのように、兄弟に対しても敵対的なことをしていないと自分の義を誇る思いに気づき、それじゃあ、いかん、と黙想を続けます。

 そして単純ですが祈ることに導かれました。ロシアの大統領が、殺人という大変な罪を犯していることに気づくように。今日という一日、殺人事件が起きないように、と。

ツユクサ 散歩道

 

反省

 今日は、教会の祈祷会に参加しました。ルカ福音書のある段落を共に読み、感想を分かち合いました。

 聖書箇所を輪読した後、5分間、各自聖書を思いめぐらしました。私はその時、説教者目線というか、ここから何をメッセージとして読み取ることができるのかという視点で聖書を読みました。そうすると何も感じないというか、何も思い浮かんできません。参加者の話すのを聞きながら、そうだ、聖書の場面に身をおいて、自分が何を感じるのか、思いめぐらすべきだったと反省させられました。

 特に私は、主イエスのことを身近に感じたいと願っているので、その場面に登場する人の立場に立って主イエスを見たらどうなのか、心がけるべきでした。その場面には色々な人が登場します。それぞれの立場に身をおいて想像したらよかったのにと気づきを与えられてよかったです。そして今、聖書を読み直しました。

ルカ 13:10~13
安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、
その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。

 イエスが教えておられると、熱心にイエスに聞き入る女性がいました。見ると彼女は、病気のために腰が曲がっています。長い間病気で患っていることを見てとったイエスは教え終わったとき、彼女を呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置きました。すると彼女はいやされ、神を賛美しました。

 イエスは、彼女を見て深い憐れみを覚えたことと思いました。また病気を抱えながらも礼拝に参加する女性の姿にも感銘を受けました。

ツリガネニンジン 散歩道

 

信仰生活の出発点(7/7)罪との戦いを始めるとき

 信仰生活の出発点は、考え方によって色々と考えることができます。公式的には、洗礼を受けた時が出発点です。信仰が何か分からないままの洗礼を受けたという人もいます。その人が実質的に信仰の歩みを始めた時を出発点と呼ぶこともできます。

 私が今回信仰生活の出発点と考えたのは、罪に立ち向かう信仰の歩みを始める時を出発点としたいと思ったからです。4つのことに心を留めたいと思います。

 第一に「私」と「私の心」の区別です。自分の行動を最終的に意志決定する自分を「私」とします。「私」には心があります。「私」は自分の心がどのような状態にあるかを観察することができます。だから「私」=「私の心」ではありません。区別できます。

 第二に「私」は罪から解放されていると信じることです。イエス・キリストを信じる人は罪から解放されている、これは福音のメッセージです。聖書に書かれています。「私」は罪を犯したいとは考えません。神に信頼し、御心に従って歩みたいと考えます。

 第三に「私」に罪を犯すように働きかける「力」があることを認めることです。聖書はそれを罪と呼びます。神の戒めに背く行為を罪と呼ぶこともあります。罪は、私の体を通して「私」に働きかけます。目から色々な情報が入ってきます。自分が置かれた状況に対して心が反応します。恐れを感じたり、喜びを感じたり、怒りを感じたり。不安を感じたり、いろいろです。心には、「こうしようか、ああしようか」などの思いが浮かんできます。罪が私の体を通して働くとき、私の心は、罪の思いに支配されることがあります。そこでどうするか、です。罪に傾く心に対して、「違う」と「私」は言い、行動することができるか否か。ここに罪との戦いがあります。

 第四に聖書の言葉、聖霊の助けです。聖書の言葉に親しみ、聖書の言葉を神の言葉と信じさせてくれるのは聖霊の働きです。私たちが聖書の言葉を神の言葉と信じ、聖書の色々な言葉を霊の剣(エフェソ6:17)にすることができます。み言葉に従うように聖霊は励ましてくれます。聖霊の助け、導きを求めて祈ることは大切です。

 私は罪深いと語るキリスト者がいます。その方は、自分の心に渦巻く思いを見て、自分は罪深いと考えられるのだと思います。「私」と「私の心」を区別します。人間の心は、生きてある限り、罪の思いが消えることはありません。なぜなら罪が体を通して働きかけるからです。罪深いのは「私の心」であって、「私」ではありません。この区別は大切だと私は考えています。この「私」は、イエス・キリストを信じることにより、義とされています。

 

エフェソ 6:10~18
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

芙蓉(フヨウ) 散歩道

 

「外なる人」は衰えても

コリント二 4:16
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

 「老いるとは新しい経験をすることです」との老教会員の言葉を折に触れて思い出します。「外なる人」の衰えを色々な形で経験します。

 ブログには文章に写真を添えるようにしています。今年の夏はとても暑く写真を撮りに行く気持ちになれませんでした。以前に撮った写真を使いました。その時のことが思い出され、また写真を撮りに行きたいなと思いましたが、遠出、人混み、疲労などを考えると気持ちが萎えます。外なる人の衰えです。

 聖書は「内なる人」は日々新たにされるとあります。内なる人は、見えないものに目を注ぐとありました。使徒パウロは、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(コリント二5:9)と書いていました。「なぜならわたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立つ」からと書いていました。パウロらしいなと思いました。パウロは「良くやった、良い僕よ」と言われることを願っているのだと思いました。

 私の場合は、老いの中にあって私を生かしてくださる主を喜ぶことを課題としたいと思いました。

ドライブ先で