holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

私にとっての主イエス(6)死においても

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(ヘブライ人への手紙4章15節)

 主イエスは、十字架の上で亡くなりました。人としての生涯を終えました。復活を見据えながら死なれました。そして人々を罪から救うという神さまのご計画に自らをささげて死なれました。

 私が自分の死を受容する理由の一つは、主イエスが死なれたから、私も自分の死を喜んで受け入れるという理解です。主に倣うことを心がけている者として、死もまた主に倣うと考えることができます。

 主イエスが先に、死という試練を経験されたので、私も安心して死んでいけるとの思いが、死の受容につながると思っています。私も主のように、その時が来たら、復活を見据えて死んでいきます。

 その時が来て仕方なく死ぬのではありません。主に倣い、死んでいくのです。

主に倣い 復活見据え 死に向かう
その日が来ても 恐れはあらじ

 父の葬儀でお世話になった方ががんで入院され、見舞ったことがあります。その方はクリスチャンでした。思い切って、今どんな気持ちですか、と訪ねた時、

「治るのもよし、常世の国に目覚めるのもよし」

と言われたことが忘れられません。「輝く とこ世のあした わがたま目覚むる時 この世の朝よりきよく 仰ぎ見ん 神のみかお」(讃美歌30)

 

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散歩道にて

 

鯛の話し

 今、日記の整理をしています。昔のブログも読んでいるのですが、説教の導入でこんなことを語ったことがありました。説教の導入でダジャレを言うように努力したこともあります。

 

皆さんは鯛が好きですか。

伊豆では、今、金目鯛がおいしい時期だそうです。

実は、鯛には沢山の種類があるんです。皆さんはどんな鯛が好きですか。

接待? これが好きで問題を起こす人が時にいますね。(クスクス笑い) 

晴れ舞台? 安泰? 

皆さんの嫌いな鯛は?

うしろめたい、じれったい、緊急事態、

痛い、耐え難い、失態、冷たい、(クスクス笑い) 


信仰的な鯛もあります。

三位一体、聖歌隊、

信仰者が神に対して持つのは、期待

(会衆の方を見回して)

あれ、あそこらへんに鯛がいます。

ねむたい(笑い)

今日のテーマも鯛です。忍耐!


愛は、すべてを忍耐する・・・・・

 

私にとっての主イエス(5)語りかけるお方

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハネ10:27)。

 私にとって主イエスは、私に語りかけるお方です。肉声を聞くのではありません。どこからか響いてくる主イエスの声を聞くのでもありません。耳ではなく心で聞きます。聖書を通して聞きます。福音書に書かれている主イエス言葉、それを私は主イエスが私に語りかけてくださる言葉として聞きます。私は羊であり、主イエスは私の羊飼いです。羊は羊飼いの声を聞き分け、羊飼いの言葉に聞き従います。私も主イエスの言葉を聞き分け、羊飼いである主イエスに従い歩む者でありたいと心がけています。

 信仰とは神さまとの交わりに歩むことと私は考えています。イエス・キリストとの交わりに生きることです。聖書を通して神の声(主イエスの声)を聴き、思いめぐらしながら、神さまとの交わりに生きる、それが私の信仰生活です。「あなたも行って同じようにしなさい」との主イエスの言葉は、時に聞くのが辛い言葉となりました。主イエスの多くの言葉は、考えさせられ教えられ、励まされ慰められる言葉です。

 今日聞いた主イエスの言葉は、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。この言葉は、私にとって大切な聖書の言葉ベストテンに入る言葉です。信仰生活を送るうちに、段々分かってきたことは、私は神さまに対して渇いていたことです。

 

私にとっての主イエス(4)隣人愛の教え

「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)。

 私の心に語りかけるイエス様の声があります。善いサマリア人のたとえにあるイエス様の言葉です。「行って、あなたも同じようにしなさい」。教会には、色んな人が訪ねてきます。助けを求めてこられることがあります。簡単に断ることができないことがあります。

 ある時、韓国人の女性が来られました。彼女は観光ビザで日本に来ているので、本来、仕事をすることができません。足もとを見られてのでしょう、雇い主がきちんと支払いをしないのです。「何とかしてもらいたいのだが」と教会に来られました。彼女はハングルで話すし、わたしにはそれが理解できません。ハングルを理解できる牧師に連絡をし、彼女の気持ちを聞いてもらいました。どのようにして彼女を助けるのか、かなりの心の葛藤がありました。彼女との関わりを拒むことはできませんでした。強盗に襲われた旅人を見て通り過ぎるレビ人や祭司にはなれませんでした。彼女のために行動を起こしました。でも彼女の願う結果にはならず、力になれなかったと思いました。

  彼女は結局、帰国しました。その後何年かクリスマスカードを送ってくれました。彼女に寄り添うことはできたのだと、とうれしく思ったことを思い出します。

 別なとき、ブラジル人夫婦が教会に来られました。夫はブラジル人、妻が日系の女性で日本語を話されました。若い夫婦でした。クリスチャンと言っていました。嘘だとは思いませんでした。彼らは日本に働きに来たのです。中古車を買いたいので、一緒に行って欲しいとのことで、中古車販売業者のもとに付き添いました。ところが買った自動車がすぐ故障したので返却したいので、また一緒に行って欲しいとのことで付き添いました。無事に引き取ってもらい、別な車を購入することにしました。今度買う車は少し高く、分割払いにしなければならないとのことで、保証人になってほしいと頼まれました。彼らには頼るべき身内の人はいません。

 私は、父から人の借金の保証人になってはいけないと教えられていたので、迷いました。でも目の前にいる夫婦は困っています。車の金額を見て、これならいいか、と思い、保証人になりました。

 しばらくして仕事を捜しに行くので、荷物を預かって欲しいと頼まれ、スーツケース数個分の荷物を預かりました。教会は会堂建築した後で、屋根裏部屋があり、そこに荷物をおきました。それから三ヶ月ほどして、お金が振り込まれないので、と私に支払いを求める書類が届きました。それで支払いをしました。

 「行って、あなたも同じようにしなさい」とのイエス様の言葉に耳を閉ざすことが私にはできませんでした。愛することには犠牲はつきものと教えられました。

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ツバメシジミ 散歩道にて

 

 

 

 

足もとの道にひびがあるような

 京急電鉄の踏切事故が大きく報道されました。トラックの運転手の方が亡くなられ、けがをした乗客も多数いました。今回、事故の報道を見ながら、損害賠償はどうなるのかと思いました。鉄道会社からすると、先頭車両が破損し、事故の復旧に多くの労力が割かれました。事故がなければ発生しない損害、費用負担が生じました。その費用をだれが負担するのか。事故の直接の原因は、トラックが踏切の中に入り、動けなくなったことですから鉄道会社は、トラックの会社に損害賠償請求をすることと思います。どれくらいの費用が発生するのか、億単位の請求になるのではないかと予測するネット情報がありました。中小の運送会社では、倒産するかもしれません。

 関東に上陸した台風のために、ゴルフ練習場の支柱が倒れ、隣家を押しつぶし、家の中にいた女性がけがをしたと新聞にありました。隣家の方は損害賠償を求めることになると思います。思いがけない重荷を背負われたことになります。

 他者に被害を与えたなら、弁証をする必要があります。時と場合によっては、とんでもない霜害賠償を求められることが自分の身に起きてもおかしくないような感覚を覚えました。普段、損害賠償などということはほとんど考えずに生活していますが、自分が歩いている道は、ひび割れていて、いつ割れて自分が奈落の底に落下してもおかしくないような不安を感じました。

 台風で被災した方たちの上に慰めと平安を祈ります。

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きのくに線海南からの淡路島

 

私にとっての主イエス(3) 私は新しい人!

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。
(ローマの信徒への手紙6章3~4節)。

 信仰を持つ前、目に見えない神をどうして信じることができるのか不思議でなりませんでした。しかし自分の罪を思い知らされ、救いを求めたとき、私は神さまを信じていました。信仰へと導かれました。信仰は神さまの賜物です。

 私は理科系の人間でした。合理的にものを考えるのが好きでした。だから奇跡など信じることができませんでしたが、神を信じたとき、全能の神を信じるのであれば、奇跡を信じない方が非合理的と考え、素直に奇跡を信じることができました。そして主イエスの復活もそのまま信じ、受け入れることができました。

 私にとってイエスの復活は過去の出来事ではありません。私はイエスと共に死に、イエスと共に新しく生きる者とされたことを信じたからです。私自身がイエス・キリストに結ばれ、罪人としての私が死に、新しい人間、神の子として生きることができることがなければ、主イエスの復活は大した意味がありません。

 自分が信仰者として新生して生きる者とされたことを何故信じることができたのかは、覚えていません。説教で教えられたという記憶はありません。新生して生きているとの印象を与えられた信仰者が周囲にいたからでもありません。おそらく自分で聖書を読んでいたからだと思います。聖書に、キリストを信じる者は新生した人と書かれていたからだと思います。

 では、私はどのようにして新しい人間にされたのでしょうか。信仰を持つ以前とは違い、礼拝に出席し、献金をし、聖書を読み、祈る人となりました。これらは外面的なことで、私が新しい人とされたことのしるしということができます。問題は内面です。私は聖書を大切にするようになりました。これらは神さまの導きに他なりません。私が考える新しい人の特徴は二つあります。

 一つは、聖霊の導きにより、聖書を神の言葉、真理の言葉と確信すること。第二に、神の言葉を拠り所にして生きることです。神の言葉に基づき考え、行動することです。神の言葉を実践して生きることです。新しい人の特徴は神の言葉によって生きることにあると私は考えています。

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散歩道にて タマスダレ

 

私にとっての主イエス(2) 十字架のキリスト

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマの信徒への手紙3章23~24節)。

 言うまでもなく主イエスは、二千年前に私の罪のために死んでくださった救い主です。伝道集会に誘われ、その後もその教会の礼拝に続けて通いました。ある時牧師から洗礼を勧められましたが、「罪が分かりません」と答えると、「それならまだですね」と言われたことがあります。転居したこともあり、しばらく教会に行きませんでしたが、伝道集会に誘ってくださった方がまた誘ってくださり、この方の通っている教会に出席するようになりました。

 ある時、礼拝が終わり、外でタバコを吸っていると牧師夫人が私を見て「まあ」と言われました。あの時、吸い殻をどうしたのか、忘れてしまいました。仕事の合間によくタバコを吸いました。ある時、タバコを吸うことが、神さまからゆだねられているこの肉体を傷つけていることを思い知らされました。以前にもこのブログに書きましたが、ある時咳をし、ハンカチを口に当てました。そのハンカチを見ると血がべっとりついていて、私は頭が真っ白になりました。

 神さまから管理をゆだねられている体を傷つけている、罰として裁きを受けても仕方がないと自分の罪を思わされました。あれほどのタバコを吸いたいとの強い思いが消えました。その時、思い出したのが十字架につけられたキリストです。キリストは私たちの罪のために十字架につけられたこと、キリストを信じる者は罪が赦されることを思い出しました。そして洗礼へと導かれました。

 あと一つ。自分を守るために思わず嘘をついたことがありました。その時は嘘をついたとの自覚がありませんでしたが、しばらくして、自分は嘘をついたことに気づきました。頭のてっぺんからつま先に至るまで自分は罪にまみれていると思いました。その時は、すぐにキリストによる赦しを感謝しました。

 その後は行為としての罪よりも、自分の心のあり様が、罪のそのものであることを知らされました。つまり自分は神を求めることなく、神のみ心に無関心であり、神と向き合って生きようとしていないこと、神を愛していないこと、そこに自分の罪の根本があることを知りました。牧師となっても、神を愛するよりも牧師としての自分を愛するのです。

 キリストによる罪の赦しを知ることはありがたいことです。神との間に平和を与えられて生きていくことができます。 

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夏の雲 散歩道で