クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の愛を知る(15)新しく生まれる

罪からの救いを考えるとき、三つのことを考える必要があります。

  • 罪を犯す傾向に対する対策
  • 罪を犯すよう働きかける力に対する対策
  • 罪で汚れた心を清めるという対策

 今回は、罪を犯す傾向に対して私たちを救ってくださる神の働きについて紹介します。

 神によって自由な存在として造られた人間は、罪に傾く心を持っています。それゆえ、何かあれば罪を犯してしまうのが人間です。その人間を罪から救うために神は、イエス・キリストを信じる者を新しく生まれさせます。

テトス 3:5
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

 私たちは洗礼を受け、聖霊の働きにより新しく生まれ変わりました。私たちは神を信じて生きて行く者として生まれ変わりました。神を礼拝し、聖書を読み、祈り、神との交わり、神との関わりに生きる者へ変えられました。神を愛し、神の御心に生きる者へと変えられました。変えられたと信じ、信仰の歩みをします。

 新しく生まれ変わったからといって、罪に傾く心が消え去るわけではありません。しかし新しく生まれ変わり、神を愛する心が芽生え、育ち、私たちキリスト者は神に従う歩みをするようになっていきます。神の国に迎えられるとき、罪に傾く心は完全に消え去ります。

ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

 私たちは洗礼を受け、新しく生まれ変わります。それは言い換えると、神の子として生きていくようにされるということです。神の子として、神の言葉を生きる糧として歩みます。聖書の教えを単なる教えと受けとめるのではなく、神の御心を示す者として受けとめ、神の子として、父なる神のみ心に生きようとします。御言葉によって私たちの心は、神の子らしい心に変えられていき、神の子として生きていきます。

 罪とは、人を殺したり、盗みをしたり、姦淫をしたりとか、何か悪いことをすることと考えられます。確かに悪いことをすることは罪です。しかし罪の根源は、私たちの心に神をないがしろにする心があることです。神よりも自分の思いを優先する心があることです。しかし御言葉によって生きようとする中で、神を神として崇め、神を愛し、神の御心を大切にして生きていく心が育てられていきます。このようにして私たちの罪に傾く心が変えられていきます。

 神さまは、私たちを新しく生まれ変わらせることによって、罪から救ってくださいます。

ハクモクレン 散歩道

 

神の愛を知る(14)罪から救う神の愛

 神の愛は、私たちを罪から救う愛です。神の愛ですから、罪から私たちを完璧に救います。でもそれは私たちが二度と罪を犯さない人間になるということではありません。では罪からの救いとはどのようなものでしょうか。

 創世記3章のアダムとエバが罪を犯し堕落した話しは示唆的です。彼らは神の教えに背き、採って食べてはいけないと禁じられた木の実を採って食べてしまいました。何が問題だったのでしょうか。

 神は人間を自由な存在として創造されました。自由に造られたな人間には一つ問題があります。それは神の創造に問題があったからではありません。自由の持つ謎といえると私は考えています。その問題とは、人間の心には罪に傾く傾向、神に逆らう傾向があるということです。人間は神ではないので、何事でも自分の思い通りにできるわけではありません。そこで人間の心には、物事を自分の思い通りにしたいという根強い欲があります。この欲はしばしば罪となって現れます。アダムとエバは、この欲に負けて採って食べてはいけない木の実を食べてしまいました。

 罪からの救いには、第一に罪の方に傾いている心を正すことが欠かせません。人間は自分の力で心のこの傾向を正すことができません。神しか正すことはできません。神が正してくださいます。

 アダムとエバの物語には蛇が登場します。神は採って食べてはいけない木の実を食べるときっと死ぬと警告しました。しかし蛇は食べても死なない、と語りました。食べるように直接そそのかすことはしていませんが、蛇の言葉は木の実を採って食べるように誘惑する力があります。

ヨハネ一 2:16
すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。

 このように外から人間に罪を犯すように働きかける力があります。この世には色々な誘惑があります。罪に傾く心を持つ人間は誘惑に負ける弱さがあります。罪からの救いには、誘惑に負けないようにすることが必要です。人間は自分の力では誘惑に勝つことができず、誘惑に負け罪を犯すことがあります。罪を犯すように働きかける力に人間が負けないようにすること、これが罪からの救いには必要です。そうしないといつ罪を犯すか分かりません。これでは罪から救われているとは言えません。

 さらに罪を犯してきた人間の心は、罪で汚されています。罪を犯すことに慣れ、罪を犯して生きることが当たり前にさえなります。それゆえ罪で汚れた心を清めることも大切です。心を洗い清める、これもまた罪からの救いとなります。私たちを罪の汚れのない者にすることは、人間を創造したときの神の御心でした。

エフェ  1:4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

 罪からの救いを考えるとき、三つのことを考える必要があります。

  • 罪を犯す傾向に対する対策
  • 罪を犯すよう働きかける力に対する対策
  • 罪で汚れた心を清めるという対策

 神は救いの恵みとして、この3つの対策を施し、私たちを罪から救ってくださいます。神の愛は、私たちを罪から救うべく完璧な対策を、つまり救いの恵みを与えてくださいます。

 人間を罪を犯さないように導くことなくして罪からの救いはありません。神の愛がキリスト者を罪から救います。神の助けを得て罪からの救いを体験するときに、私たちは神の愛を、救いの恵みを知るようになります。

ベニバナマンサク 春日大社萬葉植物園

 

生きること、生活すること

 長い期間、仕事をしてきました。仕事をすることが、生きることの中で大きなウェイトを占めていました。70歳で牧師を引退しすでに6年が過ぎました。仕事はなくなり、今は平凡な毎日を過ごすだけとなりました。何か特別な生きる目的があるわけではなく、生活することが生きることとなりました。

 今、生活することを楽しく、豊かにしたいと願っています。聖書を読み祈ることは信仰生活を豊かにしてくれます。妻と二人で協力して生活を楽しいものにし、一日を感謝をもって終わることができることを目標にしています。

 私自身は家事の中では料理に力を入れています。料理することも生きることと考えるようになりました。料理することを楽しみ、楽しく食べることも生活を豊かにします。

 朝食は『みそ汁はおかずです』(瀬尾幸子著)をバイブルにして作ります。後は夕食のために10種類くらい得意料理と呼ばれるものを作れるようになればよいのかなと思って励んでいます。

 朝食後コーヒーを淹れるのも私の役目。それがすんでから神さまとの交わりの時です。発声練習を兼ねて数曲賛美します。そして聖書を読み思い巡らし、祈る、それが午前中のルーティーンとなりました。聖書を学ぶのも楽しみ。趣味に近いかもしれません。

奈良公園 飛火野

 

神の愛を知る(13)信じる者を神の子とするほどの神の愛

 私たちは祈る時、神のことを「父」と呼びます。ということは、私たちは神の「子」であることを意味します。でも多くの人は、祈る時に、「父」と呼びかけるものだと教えられて、そう祈っていると思います。

 自分はイエス・キリストのゆえに「神の子」とされているという自覚を持つことは大切だと思っています。「神の子」はキリスト者のアイデンティティーです。言い方を変えると、神の前にキリスト者の身分は「神の子」なのです。神の前にキリスト者の立場は「神の子」なのです。

ヨハネ一 3:1
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。

 ヨハネの手紙第一では、わたしたちを神の子とするほどに神は私たちを愛しておられるとあります。イエス・キリストを信じるゆえに、私たちは神の子とされます。神の前に私たちの立場、身分は「神の子」なのです。神の前に、神の目に私たちは「罪人」ではありません。

 ルカ福音書にある放蕩息子のたとえ。主イエスが語られたたとえです。このたとえの中で、父から譲り受けた財産をすべて放蕩で使い果たして無一文となり、着の身着のままみじめな姿で家に帰ってきた息子を迎えた父は、彼にいちばん良い服を着せました。大勢の雇い人たちに、自分の息子が帰ってきたこと、そして彼を自分の息子として受け入れるように示しました。何よりも父は彼を愛をもって迎えました。財産を使い果たしたことを一言も責めませんでした。

 神の前に私たちは神の子です。神は私たちを愛し神の子としてくださいます。私たちを神の子として接してくださいます。

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」。

 考えなさい!

 自分が神の子とされることは実感できることではありません。すぐに納得できることでもありません。自分は神の子とよばれるほどに立派なキリスト者であると考えるような人はいないと思います。

 考えて、何か結論を出す必要はありません。神の子と呼ばれるほどに自分は神に愛されていると考えればよいのです。神の子として神に接すればいいのです。神の子として神に祈ればいいのです。

 神はなぜ、それほどまでに私たちを愛されるのでしょうか。私たちが愛される根拠は、私たちの内にはありません。私たちは神の子とされるほど愛される理由を持ちません。そのように愛される資格などないのに、神さまは愛してくださいます。イエス・キリストを信じる人は、恵みによって神の子とされています。

 もし、自分は罪深く、神の子と呼ばれるのに値しないなどと考えて、神が自分を神の子としてくださることを受け入れず、喜ばず、神の子として歩もうとしないなら、神は深く悲しまれると思います。

コスミレ 散歩道

 

ユーチューブと賛美

 ユーチューブ(動画配信サイト)は、インターネット時代の象徴のような気がします。コロナ禍、教会の礼拝がyoutueで中継でき、伝道の手段としても用いられるようになりました。

 私自身は、ユーチューブを通して、賛美との出会いがあります。ユーチューブがなければ出会わないであろう賛美の歌との出会いは、うれしいです。

 礼拝で歌っている讃美歌をもとの英語の歌詞の讃美歌を聞くことができ、その歌詞を味わうことができるのは私の大きな楽しみです。讃美歌の歌詞を英語で味わうと、その讃美歌の豊かさを知ることができます。

 最近は、吉田浩さんが歌う聖歌が気に入っています。相性が良いのか、私の心に響きます。CDを購入し、車の中で聞いています。午前中ディボーションをする前に発声のトレーニングを兼ねてCDを聞きながら賛美しています。

 信仰を得た頃は、讃美歌を覚えたいとの一心で讃美歌のレコード数枚を買い、かなりの曲を覚えました。牧師になり、ある時から、賛美をすることが大切なのだと思い、新しい讃美歌も歌うようになりました。礼拝でも「讃美歌を歌う」のではなく、神さまを「賛美する」という意識の変化を考え、促しました。

 そして今、老いの中にあって、讃美歌の歌詞を味わいます。讃美歌の歌詞が伝えるメッセージが心に響くようになりました。信仰の言葉として励まし、慰めを与えてくれるようになりました。感謝なことと受けとめています。

 今週の礼拝では説教後の讃美歌が私の大好きな讃美歌だったので大きな声を出して賛美しました。自分の歩みと重なる讃美歌で私にとっては特別な讃美歌です。

讃美歌502番

1.
いともかしこし イエスの恵み
罪に死にたる 身をも活かす
主よりたまわる あめの糧に
飢えし心も 飽きたらいぬ

2.
救いの恵み 告ぐるわれは
楽しみあふれ 歌とぞなる
滅びをいでし この喜び
あまねく人に 得させまほし
・・・

馬酔木(あせび) 散歩道

 

神の愛を知る(12)私たちを導く神の愛

 聖書の神は、信仰者を導く神です。愛をもって導かれる神です。聖書が示す代表的な御言葉は詩篇23編です。神を羊飼い、信仰者を羊になぞらえることは聖書の中で繰り返されています。父なる神は羊飼いとして私たちの歩みを導いてくださいます。

詩編23
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
  憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく
  わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
  わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
  あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。  ・・・・

詩編119編105節
あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯。

 私たちの手もとには聖書があります。神さまは私のことをご存じで、私を最善な歩みへと導いてくださると私は信じています。私は日々聖書を読み思いめぐらします。聖書を思いめぐらし、自分の状況、状態、気持ちなどを思いめぐらすとき、これが神の導きかなと思えることを導きとして受け取り、その導きに従う歩みを私は続けてきました。

 私は信じます。神は愛をもって、私たちを導かれる神であると。

オオイヌノフグリ 散歩道

 

神の愛を知る(11)御子を惜しまぬ父なる神の愛

 悪化した関係を回復するには、悪化の原因を作った方が関係回復のために手段を講じることが必要です。イスラエルの民は罪を犯したとき、罪を贖うためのいけにえをささげ、神から罪の赦しを受け、神との関係を回復させました。罪を犯したときはいけにえをささげるように神は掟として定めていたからです。

 いけにえをささげるということは、いけにえをささげた人に代わって、そのいけにえが罪に対する神の裁きを受けることを意味し、そのおかげでいけにえをささげた人は罪の赦しを受けることができます。

 ところが神はイエスを罪を贖ういけにえとしました。赦しを与える神がいけにえを差しだすというのは、理屈に合いませんが、神はイエスを十字架の上で死に渡しました。イエスは人間の犯した罪に対する裁きを一身に受け死んだのです。神は人間を罪から救うために、神の方からいけにえを用意したのです。何としても人間を神との交わりに生かしたいという神の切なる思い、切なる愛がありました。

 このことはさらに大きな神の愛を示しています。神は人間の罪を贖うために、御子を惜しまずにいけにえとしました。しかもその御子、人となった御子を死に追いやることを敢えてするほどの神の愛が示されました。御子をさえ惜しまない、ここにさらに大きな神の愛があります。計り知ることができないほどの大いなる神の愛です。

ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヤブツバキ 散歩道