クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(28)罪から解放されて生きる-1

 聖書が告げる神さまは、私たちを罪から解放してくださる神さまです。聖書もまたそのように告げています。

ローマ6:17~18
しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。

ヨハネ8:31~32
わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。

 聖書が告げる神さまの力を確認します。まず聖書が伝える神さまは、その昔、イスラエルの民をエジプトにおける奴隷状態から解放した神です。エジプトにおいて大いなる業を行い、エジプト王の支配から民を解放しました。あるいは海を二つに分け、イスラエルの民をエジプト軍の追撃から守りました。このような神さまが、罪は赦すが罪からの解放を願わないし、与えることができない神であると考えることができるでしょうか。

 聖書の神さまは、十字架で死んだイエス様を復活させました。人を死者の中から復活させることのできる神が、人を罪から解放し、罪に打ち勝つことができるようにできない神でしょうか。

 聖書の神さまは、この世界を、そして人間を創造されました。このような創造主が人間を罪から解放することができないなんて、考えることができるでしょうか。

 聖書の神は愛の神であると言われています。罪は赦すけど罪からの解放は与えないなどと考えることができるでしょうか。

 イエス・キリストを救い主として私たちに与えた神さまは、私たちを罪から解放させることができる神であり、罪の赦しと共に罪からの解放を与えてくださる神です。イエス・キリストによる救いの恵みは罪の赦しだけではなく、私たちを罪から解放します。

 罪から解放されて生きるために、神さまは私たちの罪を赦すだけではなく、私たちが罪から解放され自由に生きることを願う神さまであることを信じることから始めたいと思います。

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ひまわり 馬見丘陵公園

 

探しなさい、そうすれば見つかる

 先日出かけようとしたら、定期入れがいつもある場所にありません。定期入れには「ナナマルカード」を入れてあります。奈良市では70才以上の人にナナマルカードを発行してくれます。バス代が1回100円になります。妻にも探してもらいましたが見つかりません。カードの再発行が必要かと思い、その手続きをネットで調べもしました。焦りました。しかし最後に、ハイキングに行く時バスに乗ったことを思い出し、外出する時に使う小物を入れるポーチを調べたら、見つかりました。

 今日、ようやく見つけたものがあります。それはある朝目覚めた時に、あるメロディーが頭の中に鳴っていたのです。ピアノ曲です。メロディーを書き留めておけばよかったのですが、忘れました。でも聞けば分かるだろうということで、探し始めました。7月8日から、シューベルト、モーツァルト、ショパン、シューマン、そしてベートーベンのピアノ曲。今日ベートーベンのピアノソナタ第21番の第3楽章が始まったら、あのメロディーが聞こえてきました。30枚ほどのCDを聞いたでしょうか。およそ一ヶ月ほどかかりましたが見つかりました。

 そしてもう一つ今探しているものがあります。これは霊的な探しものです。パウロが自分の信仰告白として語っている言葉があります。

フィリピ1:21
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。

 23節でパウロは「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており」と述べています。今すぐでも世を去ってキリストと共にいたいというのです。キリストと共にいることができる、それゆえに死ぬことは利益だというのです。

 私は思うのです。「今すぐ」なんてあわてなくても、急がなくても、いずれイエス様のもとに行くのだから、それでいいんじゃない、と。しかしパウロは、そうではないんです。今すぐ世を去りたいのです。主イエスと一緒にいたいのです。その熱望がどこから生まれるのか、それが今の探しものです。

 パウロは老齢期にあり、伝道に疲れたんじゃないか、生きることに疲れたんじゃないか、と言う人もいるかもしれません。そうではないと思います。弱音を吐くようなパウロではないと思います。

 

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ひまわり 馬見丘陵公園で

 

故人との再会

 最近、テサロニケの第一の手紙を読んでいます。先週読んだ箇所です。

4:13
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。

 こう書いてパウロはクリスチャンの希望を語り始めます。主の再臨につづいてクリスチャンは復活し、「わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と語ります。またパウロはフィリピの信徒への手紙で

1:21
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

と語り、続けて「この世を去ってキリストと共にいたいと熱望している」(1:23)と書いています。パウロにとって「主と共にいる」「主といつまでも共にいる」ことが最終的な希望であることがわかります。

 牧師として教会員の葬儀を執り行いました。その時、「式文」に書かれた聖書箇所、葬儀に関わる言葉を読みます。その中で、故人との再会の希望が語られるのです。天国での再会です。天国での再会があると伝えることは遺族の方たちに慰めになると思います。しかし私は少し違和感を感じていました。聖書はこのような天国での再会を直接的には語っていません。私が聖書を読んだ記憶の中では、語っていません。もしかしたら見落としているかもしれませんが。

 パウロは信仰者の希望は「主と共にいることにある」と語ります。私たちが主と共にいることになるので、主の前で再会する可能性はありますから、天国での再会を語ることはよいと思います。
 でも、しかし、と思うのです。聖書が語る第一の希望は「主と共にある」ことです。パウロは今すぐ「この世を去ってキリストと共にいたいと熱望している」と語ります。このような熱望はどこから出てくるのか、私は知りたいです。「主と共にある」ことが真の希望としてもっと語られるとよいと思います。第一のことより第二のことが優先されて語られていることに私の違和感の理由があったことがわかりました。

 

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ひまわり 馬見丘陵公園

 

ふと目にした言葉から

 昨日新聞を読んでいた時、ふと書かれている言葉に目が留まりました。「終わりの思い 1」と題して

わたしのこの世での日々はまもなく終わろうとしている。
それをわたしは受け入れる。
主の御許へ旅立つ。
この世に残す思いはない。

 非常に親近感を感じる言葉でした。よく見るとそれは新聞の連載小説でしかも連載第一回でした。思わずこれを目にしたのは神さまの導きか、と思った次第です。

 さらに読むと聖書が書かれていました。

人はみな草のごとく、
その光榮はみな草の花の如し、
草は枯れ、花は落つ。
されど主の御言は永遠に保つなり 

  これは私の信仰を支える聖句の一つです。

幸いわたしはこの生涯で咲かせたつつましい何輪かの花を手にして主の前に立てる。

 こうして主人公が自分が咲かせた花を確認するために自分の過去を振り返るという内容のようです。私自身も35年近い伝道者の生活の中で、どんな実を結ぶことができたのか、と考え、自分の歩みを振り返ることはあります。

 今朝は連載二日目。「来年の5月9日に北海道の礼文島で金環食が起こることを知っている。しかしこの金環食をわたしは見ることはない。わたしはもうこの世界にいないのだから」とありました。ネットで調べると、それは昭和23年5月に観測されたことが分かりました。それで主人公は戦後まもなく亡くなったことが分かります。

 期待感があふれてきました。作家は池澤夏樹氏。かつて『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』という本を出版しています。この本は池澤夏樹氏の従兄弟の秋吉輝雄氏との共著のようです。小説の主人公は、この秋吉氏の祖父に当たる方ではないかと思われます。

 ふと気づいて小説の題名を見たら『また会う日まで』。朝日新聞です。

 

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ムクゲ 礼拝からの帰り道

 

クリスチャンの成長(27)新しい命に生きる-5

ヨハネ14:6
「わたしは道であり、真理であり、命である」。

 イエス様は命であるお方です。イエス様を信じ、新しい命、永遠の命に生きる人は、イエス様との関わりに生きる人であることが予想されます。パウロは、イエス様が自分の内におられ、生きていると語ります。

ガラテヤ2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

 命であるイエス様がわたしの内におられ、私を生かし、私は生きている、とのパウロの告白。イエス様が自分を生かしてくださっているとの思いを持つクリスチャンは少なくないと思います。それでパウロは次のように告白します。

フィリピ1:21
「わたしにとって、生きるとはキリスト」。

 さらにパウロは自分が何のために生きるのか、次のように語ります。

ローマ14:8
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

 新しい命を与えられて生きるとは、このような歩みを目指すことではないかと考えます。私たちがこのような歩みを目指すには理由があります。イエス様は十字架の上で死に、私たちの罪の贖いをしてくださったからです。イエス様のおかげで私たちは救われて今を生きることができるからです。イエス様の救いがないなら、今生きているといってもその行きつく先は滅びです。

 このようなパウロに倣うことはすばらしいと思いますが、ハードルが高いと思う方も多いと思います。私もそう思います。しかし、その昔、富士登山は長い裾野を歩くことから始まったのです。標高の低い裾野を歩くことから富士登山は始まったのです。いきなり高みを目指すのではなく、まずは裾野から歩く、それでいいと私は思います。少しずつ上を目指すのです。

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ツユクサ 散歩道

 

クリスチャンの成長(26)新しい命に生きる-4

  クリスチャンは新しい命を与えられています。この命は永遠の命とも呼ばれます。この命をいただくと私たちの身に何が起きるのでしょうか。私たちは神さまとの交わりに生きるようになります。

 たとえば聖書を読み、そこから神さまの語りかけを聞くことができるようになります。神の語りかけといっても神の声を直接聞くわけではなく、これが神さまの御心かな、っと思うものを心で聞きます。そしてこの神さまの御心に従って生きるようになります。私たちは自分の考え、自分の思いだけで生きるのではなく、自分を導く神さまの声を大切にするようになります。

 また神さまに祈るようになります。祈りといっても、ただ願いごとを神に知らせるだけではありません。祈りは神さまとの対話です。私たちは神に語りかけます。自分の思い、気持ちを伝えます。祈ったらすぐに神の応答が聞こえてくるわけではありません。私自身は、聖書を読み、思いめぐらす中で、あゝ、神さまから答えが与えられたなと思うことがよくあります。

 私は聖書を読む前に、神さまを賛美します。神さまを賛美することは私の信仰を強めてくれるように思います。讃美歌の歌詞は聖書と違い神の言葉ではありませんが、信仰の言葉は励ましを与えてくださいます。

 以上のように個人的に聖書を読み、祈り、賛美するという信仰者の行為は、新しい命、永遠の命を与えられるからできることです。そして教会での礼拝です。信仰を同じくする人たちとの礼拝。礼拝する喜びがあります。命を与えられているからこそ、礼拝が喜びとなり、神と向き合います。

 そして、この神との交わりは、私たちの死を越えて続いていきます。信仰者と神との交わりに終わりはありません。それ故、神さまから与えられた命は永遠の命と呼ばれます。

コリント一 13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのとき
には、顔と顔とを合わせて見ることになる。

 今私たちが神さまとの交わりをもつといっても、それは鏡におぼろに映ったものを見ているようなもどかしさ、あやふやさがあります。しかし神さまとの交わりに生きる努力をするから、顔と顔を合わせて神さまにお会いする神の国に迎えられることを待ち望むようになります。

 

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ひまわり 散歩道

クリスチャンの成長(25)新しい命に生きる-3

 クリスチャンは新しい命を与えられています。新しい命を与えられたクリスチャンは神の子です。新しい命、それは神の子が持つ命です。

 命は食物によって支えられる必要があります。生物としての人間は毎日食事をして生物としての命を維持しています。料理により人間はその食事を楽しみにすることもできます。栄養不足は栄養失調を招き、食物不足は餓死に至ります。

 新しい命の食物とは聖書、神の言葉です。信仰者が神の言葉を食べれば、神の言葉は信仰者に働きかけ、信仰者を生かします。しかしこれを食べなければ、信仰を持たない他の人々と同じように考え行動します。信仰を持つ以前と何の変わりもありません。しかし神の言葉を食べれば、その人は考え方・生き方が変化します。神の子としてふさわしく考え、生きるようになります。クリスチャンなのに、この世の人と変わらない人であれば、新しい命は栄養失調か餓死しているかもしれません。

 自分の考え方、ものの見方、何を大切にしているのか、信仰を持っていない人とはっきりと異なっているでしょうか。それとも変わりがないでしょうか。キリスト者にふさわしい考え方、ものの見方、価値観をもっているでしょうか。ここに神さまから与えられた命が生きて働いているか否か、分かれ目があります。

 クリスチャンもこの世の人と同じように生活しています。順風の時も逆境の時もあります。この世の人は、自分の知恵、常識、他の人たちのやり方に従いますが、クリスチャンは聖書の語ることに従い対処する面があります。おのずとこの世の人たちと生き方が違ってくる面があります。

 日曜日教会の礼拝に行っているだけ、献金しているだけ、聖書を読んでいるだけ、お祈りしているだけ、では必ずしも新しい命が生きているとは限りません。その行動がクリスチャンとしてのお勤めを果たすことになってしまっているのです。こう言っては何ですが、クリスチャンであることが人生のアクセサリーになっている人もいます。

 私としては、クリスチャンになったのなら、本物のクリスチャンとして生きていきいたいです。本物とは、神さまが与えてくださった命に生きることです。生かされることです。

 

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梅雨の晴れ間の雲