クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(1)生きる力としての喜び

 喜びについて、私の心に留まる聖句があります。

テサロニケ一5:16
いつも喜んでいなさい。

フィリピ4:4
主において常に喜びなさい。

「いつも」「常に」喜んでいなさいという命令。クリスチャンでも多くの人はそんなこと無理だと言うのではないかと思います。でもそれは、神の言葉を嘘だということになります。いつも喜ぶ、それは神さまの命令であり、実現する喜びです。

ヨハ 15:11
わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

 ここには「わたしの喜び」という言葉があります。イエス様が喜びとする喜びです。それがどんな喜びなのか、私たちは必ずしも知っているとは限りません。いや知らないでしょう。でもイエス様の喜びを私たちが知ったのなら、この喜びは私たちを満たすと約束されています。イエス様は神の独り子、神さまの愛する子でした。イエス様は、父なる神さまの御心に歩まれました。しかも十字架の死に至るまで。神の子であるイエス様は、父なる神さまの御心に生きることを喜びとされました。これがイエス様の喜びです。私はそう信じます。

ペトロ1:8
あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

「言葉では言い尽くせない喜び」とはどのような喜びなのでしょうか。人間の言葉では表現できないほどの喜び。すなわち上から来る喜び。神さまが与えてくださる喜び。

 以上のような「喜び」について聖句を思いめぐらす時、この喜びの正体が何か、分かってきたような気がしています。それはクリスチャンのアイデンティティーを喜び、これに生きる喜びです。神の子とされている喜び、神の子として生きる喜び、洗礼を受け新しく生まれた喜び、新しく生まれた者として生きる喜び、聖なる者とされた喜び、聖なる者として生きる喜び、聖霊がうちに住んでくださる喜び。罪から解放された喜び・・・。さらに律法から解放された喜び。これらの喜びを喜びながら、クリスチャンとして成長しキリストに似た者とされていく喜び。これはクリスチャンの生涯にわたって続く喜びです。なぜならクリスチャンは生涯成長し続けるからです。

 これはイエス様が与えてくれる喜び、常に喜べる喜びなのですが、すぐに私たちが喜べるとは限りません。信仰の喜びだからです。聖書を読み、クリスチャンのアイデンティティーを味わい、このアイデンティティーに生きるうちに喜びがじわじわと心の内にわき上がってきます。私たちも喜んで神の子として生きていくようになります。私はこのように信じ生きています。

 

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野バラ 散歩道で

 

実はイスラエルも(10)まとめ

 旧約聖書には、「神の民」というアイデンティティーに生きるように召されたイスラエル民族と神との関わりが書かれています。旧約聖書から教えられることを以下の五つにまとめました。それはクリスチャンのアイデンティティーに生きようとする私たちにも役立つことと信じます。

1.神はご自身を救いの神として現される神

 イスラエルの民はエジプトにおいて奴隷で苦しい生活をしていました。その苦しみからの救いを求めて神に祈りました。神はモーセを指導者として選び、イスラエルを救う神としてご自身を現しました。エジプトからイスラエルの民を脱出させるだけでなく、自由に生きることができる土地しかも肥沃な土地で実り豊かな土地へ導くと約束されました。

 イスラエルの民はエジプトを脱出し、神が与えると約束された土地を目指して旅をしました。その旅では、時に困難が生じました。困難の時、それは神が救いを与える時でした。神がイスラエルの民を救う神であることを現す時でした。イスラエルの民は困難を通して助けてくれる神を体験し、ますます神に信頼し、この神をまことに神と崇めて生きていくようになることを神は願いました。

2.神はイスラエルの民を愛し、交わりを求める神

 エジプトを脱出したイスラエルの民はシナイ山の麓で神と契約を結びました。神はイスラエルの民に、「わたしはあなたたちの神になる」と約束しました。すでに神はイスラエルの民をエジプトから救出し、ご自身をイスラエルの民を救う神として現され、これからもイスラエルを救う神であり続けることを約束しました。

 神はイスラエルの民に十戒という戒めを与えました。神の戒めに従って生きることは、愛と平和と喜びに生きる秘訣です。イスラエルの民は神の戒めを守ると約束し、神の民として生きていくことを神に約束しました。神の民、それはイスラエルの民のアイデンティティーでした。

 世の中には色々な民族がいます。イスラエルはその中の一つの民族であるだけでなく、神との関わりに生きる民、神の民でした。そこに彼らの特徴、アイデンティティーがありました。イスラエル民族とは何か、神の民として生きる民です。

 聖書の神は、イスラエルの民との交わりを求める神でした。神はイスラエルの民を愛し、彼らを助ける神として自分を現しました。そしてイスラエルの民が幸いな歩みができるように戒めを与えられました。神はイスラエルの民が神に信頼し、神に寄り頼み、祈り、神の戒めを守ることを期待しました。つまりイスラエルの民が神を愛することを期待しました。神とイスラエルの関係、それは互いに愛し合う関係でした。

3.偶像礼拝をするイスラエルの民

 エジプトを脱出し約束の地を目指した民は、困難が起きるとモーセに不平を言い、神に文句を言いました。なぜ困難に遭わせるのか、と。そしてこんなことならエジプトにいた時の方がよかったとさえ語るのです。エジプトから解放させてくれたことはよかったけど、約束の地を目指す旅の中で困難に遭うなんて思っても見なかった、と不平を言うのです。つまりイスラエルの民は「自分の思い通りに生きる」ことだけを求めていたのです。

 イスラエルの民は、さまざまな困難を体験し、神の救いを体験したのに、約束の地を目の前にしても、なおイスラエルの民は不平を言い続けたのでした。

 約束の地に入っても、「自分の思い通りに生きる」ことを求める歩みをしました。約束の地に入ったイスラエルの民は、周辺の民族にならい、偶像礼拝をしました。つまり神の像を造り、その神にいけにえを献げ、その前に手を合わせて祈り、幸いを祈るのです。丁重に神にいけにえをささげ、神に自分の願いをかなえてもらうことを願います。豊かな実りを願うのです。イスラエルの民は彼らをエジプトから救い出した神以外のものを神としました。彼らにとって神とは、自分の願いさえ聞いてくれればいいのです。そのためにいけにえをささげ、恭しく宗教儀式さえ執り行うのです。イスラエルの民は十戒に背いたのです。

  • 第一の戒め:わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
  • 第二の戒め:あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない

4.罪とは何か

 イスラエルの民を見ていて教えられることは、罪は不道徳なこと、悪しきことをすることではありません。聖書が教える罪とは、偶像礼拝をすることと教えられます。神以外のものを神とすること、神の像を造り礼拝をすることです。それは言い換えるとイスラエルの民をエジプトから救いだした神との交わりに生きようとしないことです。神の民というアイデンティティーに生きようとしないことです。神を愛さないことです。神を神としないことです。罪は神に対する罪です。そして神をないがしろにするところから、様々な問題ある悪しき行動が生まれてきます。

 神は聖なる神として罪を憎まれます。そして罪に対して怒る神であり、罪を裁く神です。それはイスラエルの民があくまでも神に立ち帰ることを願うからです。

5.忍耐し待ち続ける神

 イスラエルの民は偶像礼拝を繰り返します。それが目に余るようになると神は彼らを懲らしめます。イスラエルの民が悔い改めると神は彼らを赦し、イスラエルを救う神としてのご自身を現されます。王国時代、神を敬わない王が続き、偶像礼拝がはびこり、また社会において正義が行われなくなると神は預言者を送り、イスラエルの王、民に悔い改めを促します。神に立ち帰るように訴えます。神はイスラエルの民が悔い改めるのを忍耐をもって待つ神であり、契約を結んだイスラエルの民を見限り、見捨てることはなさいませんでした。神は契約に忠実であり続ける真実な方です。

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レモンタイム(ハーブ系) 散歩道で

 

実はイスラエルも(9)立ち帰るよう呼びかける神

 ソロモンの死後イスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。多くの王は、神を敬わず偶像礼拝をしました。そこで神さまは預言者を遣わし、イスラエルが神の民として生きるように、神に立ち帰るべきことを告げさせます。神に背き続けるイスラエルの民を神はなお愛し、彼らが立ち帰ることを願われたのです。預言者の言葉を引用します。

預言者イザヤの言葉

イザヤ書 55:6~7
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば
豊かに赦してくださる。 

 預言者エレミヤの言葉

エレミヤ書25:3~9
ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から
今日に至るまで二十三年の間、主の言葉はわたしに臨み、
わたしは倦(う)むことなく語り聞かせたのに、
お前たちは従わなかった。
主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、
お前たちは耳を傾けず、従わなかった。
彼らは言った。
『立ち帰って、悪の道と悪事を捨てよ。
そうすれば、主がお前たちと先祖に与えられた地に、
とこしえからとこしえまで住むことができる。
他の神々に従って行くな。
彼らに仕え、ひれ伏してはならない。
お前たちの手が造った物でわたしを怒らせるならば、
わたしはお前たちに災いをくだす。
しかし、お前たちはわたしに従わなかった、と主は言われる。
お前たちは自分の手で造った物をもって、わたしを怒らせ、災いを招いた』。
それゆえ、万軍の主はこう言われる。
お前たちがわたしの言葉に聞き従わなかったので、
見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、
北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、
ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。
そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる。

 北のイスラエル王国はすでにアッシリア帝国によって滅ぼされ、南のユダ王国はバビロン帝国によって滅ぼされることとなりました。神の民であったイスラエルが造り上げた王国は神の裁きにより滅びてしまいました。しかし神は彼らを見捨てたわけではありません。神は救い主の到来を預言者を通して語られました。

 預言者エレミヤは語りました。

エレミヤ書31:31~34
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 新しい契約を結ぶ日の到来が告げられます。イエス・キリストによる新しい契約です。新しい契約において、神は信仰者の罪を赦し、その罪を心に留めないとあります。まったき赦しです。さらに信仰者の心に神の教えを記すとあります。つまり信仰者は自ずと神の教えを守るようになるというのです。

 預言者イザヤは、救い主がどのような最期を遂げるのかを語りました。

イザヤ書53:6~11
わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。

 イエス・キリストの十字架の死を思い起こさせる預言です。神は新しい形での神の民の再生を計画しておられます。つまりキリストを信じる教会という新しい民の到来、誕生を神は計画しておられます。

 

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何と八重咲きのツツジです! 散歩道で

 

実はイスラエルも(8)信仰の継承

 ダビデ王が死んだ後、ソロモンが王となりました。彼が王の時、イスラエルは最大の領土を誇りました。彼は最初、神を敬う王でした。彼の信仰を物語るエピソードがあります。ある時、神は夢枕に現れソロモンに言うのです。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」。するとソロモンは神に願います。

列王記上上3:6~9
あなたの僕(しもべ)、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」。

 これを聞いた神は次のように言います。

列王記上上3:11~14
あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。

 ソロモンはやがて神殿を建設します。その時、ソロモンは敬虔な祈りを捧げます(列王記上8章)。神を畏れ敬う王の祈りです。ソロモンのもとを訪れたシバの女王は、ソロモンのもつ富とソロモンの知恵と富に驚嘆しています。やがてソロモンは多くの外国人の女性を愛し、そのとりこになったと聖書に書かれています。権力を持つ地位にいていつの間にかおごり高ぶるようになったのです。

列王記上11:3~4
彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。

列王記上11:5~7
ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべき神ミルコムに従った。ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。

 ソロモンは偶像礼拝を行うようになりました。ソロモンは神の怒りを買いました。その結果、イスラエルの国は北のイスラエルと南のユダに分裂しました。ソロモンの子孫は南のユダ王国を支配する王となりました。その王の中には敬虔に神を敬う王もいれば、偶像礼拝を行う王もいたのです。偶像礼拝を行う王の子が敬虔な王だったり、敬虔な王の子が偶像礼拝を行う王だったりします。信仰の継承は困難であったということができます。

 これを見て思います。信仰というのはある意味、個人的な事柄であると。つまり聖書における神信仰は、神との交わりに生きる信仰です。神との関わりに生きる信仰です。一人ひとりの個人が神との交わりに生きるのです。

 他方、王は権力を持ちます。富をもちます。すると神との関わりに生き、神を畏れ敬うなんて面倒だ、と考える王も出てきます。自分の好きなように生きていきたいと考える王がでてきます。偶像礼拝を行い、偶像に供え物を献げ、自分の歩みの祝福を願う王が出てきます。だから信仰の継承がなされません。偶像礼拝を行う王から敬虔な王が出てきたり、敬虔な王から偶像礼拝をする王が出てきたりします。

 神の民イスラエルの歴史は、基本的に神を敬わない方向に進んでいきます。そして北のイスラエル王国、南のユダ王国はともに滅びてしまいます。

 聖書が伝える信仰は神との交わりという面があり、信仰の継承は簡単ではなかったことがわかります。信仰の継承が簡単ではないことは今でも同じです。

 

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散歩していると鹿が

 

悔い改めの祈り

天の父よ、
赦してください、わたしの罪を
偶像礼拝の罪を。
気づいたのです、わたしの中にあったモヤモヤしたもの、
それは偶像礼拝の結果だったのです。

天の父よ、
わたしはあなたを信じています。
救い主イエス・キリストを信じています。
あなたのみ言葉が真理であり、
神の言葉であると信じています。
あなたのみ言葉に基づいて
物事を考え、行動してきました。
生きてきました。
でも私は偶像礼拝をしていたのです。

天の父よ、
わたしはわたしの理性を偶像にしていたのです。
わたしの理性、それはあなたからの賜物です。
賜物でしかありません。
しかしわたしは、わたしの理性を偶像にしていたのです。

天の父よ、
わたしはあなたに導かれ、信仰を得ました。
わたしの理性もあなたに導かれ、あなたを信じました。
わたしの理性は、聖書を神の言葉と信じ、
あなたのみ言葉を土台として物事を考え、
あなたのみ言葉によって生きてきました。
わたしはあなたを信じ、
あなたへの信仰に生きてきました。

天の父よ
しかし、わたしはわたしの理性を崇めていたのです。
わたしの理性こそ、本当に信頼できるものと考えていたのです。
わたしは、わたしの理性が信じることのできることを信じてきたのです。
聖書を読んでも、わたしの理性が信じることのできる範囲で、信じてきたのです。
聖書には、わたしの理性がにわかには信じることのできないことが書かれています。

天の父よ、
それは終末の事柄です。
これをわたしの理性は否定しません。
聖書に書いてあることですから。
ですから終末の事柄を受け入れるのです。
でもそれはただの知識として受け入れるだけです。
わたしの生きる指針とはならないのです。
わたしの生きる力にはならないのです。
わたしを生かす力とはならないのです。
わたしの理性は無意識のうちに
終末の事柄を生きる指針とする努力を怠りました。

天の父よ、
わたしは気づきました。
あなたを信じている以上に、
わたしの理性をわたしは信じていたのです。
あなたが語ることより、
わたしの理性の語ることをわたしは信じていたのです。
あなたからの賜物でしかない理性を
あなたより信頼にたると考えてきたのです。
まさに偶像礼拝の罪!

天の父よ
まことの理性は、あなたを崇め敬います。
あなたより上に立つことはしません。
それがまことの理性です。
あなたの賜物としての理性です。

天の父よ
アダムとエバと同じように、
わたしは自分の理性を優先させる罪を犯していたのです。
理性が許す範囲において、
あなたに従って生きてきました。
あなたの賜物でしかない理性を崇めました。
何という愚かな罪。
それが罪だと気づきにくい罪。
赦してください。

天の父よ、
この偶像はやっかいです。
いつもわたしと共におり、
わたしから離れることはありません。

天の父よ、
わたしは悔い改めます。
わたしの理性を賜物の位置にとどめます。
わたしがこの賜物を正しくよく用いることができますように。
聖書を読むとき、終末の事柄を読む時、
深く深く思いめぐらし、あなたから与えられた理性を賜物として用います。
あなたの御心を仰ぎ、聖書を読みます。

天の父よ
あなたの御霊によって、
聖書を読むことができますように。
あなたの御霊によって
この賜物を正しく用いることができますように。
私はこの偶像を捨てます。
わたしを聖霊で満たし、助けてください。

天の父よ
この賜物を与えてくださったあなたを
心から崇めます。
あなたこそ、まことの主、
あなたこそ真実で、信頼にたる唯一のお方です。

 

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ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草) 散歩道にて

 

実はイスラエルも(7)神の民の代表としての王

 神はイスラエルの民が王を立てることを望んだとき、イスラエルの民は、神が彼らの王であることを願わなかった、と理解しました。しかし神は王を立てることを許し、さらに神自ら王を選びました。サウロ王です。

 神は、神の指示に従わないサウロを王の地位から退けました。そして神はダビデを次の王に選びました。ダビデを選ぶにあたり神は、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われました。そして神はエッサイの息子たちの中からダビデを王として選びました。神さまは王が神を畏れ敬う王であれば、イスラエルを神の民として認めることができると考えたのだと思います。

 ダビデは、イスラエルを攻めてくるペリシテ人との戦いを繰り返しました。その際ダビデは徹底的に神に指示を求めました。そして与えられた指示に従い闘い、勝利を得ることを繰り返しました。さらにダビデはアラム人とも闘いました。「主はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた」(サムエル記下8:6)。

 ダビデは神を敬い、神に信頼する王でした。神の民イスラエルの王にふさわしい王でした。それで神はダビデにあなたの王朝をとこしえに堅く据えると約束されました。これを受けてダビデが祈った祈りがあります。

サムエル記下7:22~24
主なる神よ、まことにあなたは大いなる方、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません。また、この地上に一つでも、あなたの民イスラエルのような民がありましょうか。神は進んでこれを贖って御自分の民とし、名をお与えになりました。御自分のために大きな御業を成し遂げ、あなたの民のために御自分の地に恐るべき御業を果たし、御自分のために、エジプトおよび異邦の民とその神々から、この民を贖ってくださいました。主よ、更にあなたはあなたの民イスラエルをとこしえに御自分の民として堅く立て、あなた御自身がその神となられました。

 ここには、イスラエルが神の民であることを深く自覚している王ダビデがいます。そのことを感謝している王ダビデがいます。しかしこの神を畏れ敬う王ダビデもまた罪を犯します。人妻バト・シェバと姦淫をし、その夫ウリヤを戦場で死ぬように計らい、姦淫と殺人の罪を犯したのです(サムエル記下11章)。王という権力ある地位に就いているうちにおごりという心の隙(スキ)ができたのでしょうか。しかしダビデは家臣のナタンに罪を指摘された時、素直に悔い改めました。姦淫の結果生まれた子は死にました。罪はにがい結果をもたらしました。しかし神はダビデの悔い改めを受け入れ、彼を王の地位から退けることはなさいませんでした。彼の王国がとこしえに続くという約束を取り消すこともありませんでした。

 サムエル記下には、ダビデに関わる色々な出来事が書かれていますが、ダビデは神への信仰を貫いて生涯を全うします。死期が近づいたとき、ダビデは、次の王となるソロモンに次のように語り彼を戒めました。

列王記上2:1~4
死期が近づいたとき、ダビデはこう言って王子ソロモンを戒めた。「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しくあれ。あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる。また主は、わたしについて告げてくださったこと、『あなたの子孫が自分の歩む道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく者が断たれることはない』という約束を守ってくださるであろう」。

 旧約聖書は、イスラエルの民が「神の民」というアイデンティティーに生きるかどうかをイスラエルの王がどう生きるかという形で語り継いでいきます。神の民を代表する王。ダビデ王は神を畏れ敬う王、神の民の王として生き抜いた信仰者でした。勿論完璧な信仰者はいません。

 

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ミヤコグサ 散歩道

 

実はイスラエルも(6)顧みる神

 イスラエルの民は、神が与えられた地に住みました。そこでイスラエルの民は「世界」と出会います。つまり自分たちの周辺に住んでいる人たちを意識します。彼らは必ずしも友好的とは限らないのです。預言者サムエルの時代、ペリシテ人がイスラエルを攻めるようになります。そこで民はサムエルに願います。

サムエル記上7:8
イスラエルの人々はそのことを聞き、ペリシテ軍を恐れて、サムエルに乞うた。「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください」。

 主に助けを求めるのは、神の民としてふさわしいことです。サムエルは主に助けを求めます。

サムエル記上7:9~13
サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。主は彼に答えられた。サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。イスラエルの兵はミツパを出てペリシテ人を追い、彼らを討ってベト・カルの下まで行った。サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた。ペリシテ人は鎮められ、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えていた。

 やがてサムエルは年をとります。イスラエルの民はサムエルに代わる王を求めます。

サムエル記上8:5
「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」。

 イスラエルの民は神の民であることをやめ、周辺の国々と同じになろうとします。「神の民」というアイデンティティーを捨てようとします。王を求める民の願いは、サムエルの目に悪に思えました。サムエルは主に祈ります。

サムエル記上8:6~9
そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。

 神は王を立てることを許します。しかし王を立てることを願うイスラエルの民は、神が王として彼らに君臨することを拒んでいる、と神は見ています。イスラエルの民は「世界」を認識し、世界の中の自分を意識し、自分の弱さ(軍事的弱さ)を認識します。そこで王を立て、軍事力を持ち、軍事力に頼ろうとしたのです。神に頼るのではなく、人間の力に頼ろうとしたのです。神の民失格です。

 しかし神はそんなイスラエルの民を見捨てることなく、王を立てることを許します。許すどころか、神ご自身が王を選びます。私はここに神の憐れみを見ます。神は御自分を拒むようなイスラエルの民、神が神の民として選ばれた民を見捨てることはしません。「私はあなたがたの神となる」という契約に神は忠実です。「イスラエルの神」というアイデンティティーに神は生き続けます。

 

 

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今が盛りのニワゼキショウ 散歩道