クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

復活を信じる(1)

 聖書にはイエスが復活したと書かれています。イエスの復活、それは現実に有り得るのでしょうか。

 復活を信じることについて、私には二つの思いがあります。

 若い頃、クリスチャンの婦人の紹介で、お見合いをしたことがあります。紹介していただいたのは、クリスチャンでした。その頃私はまだ信仰は持っていませんでした。正直言って、目に見えない神を信じることに驚きを覚えました。紆余曲折色々ありましたが私はイエス・キリストを信じるようになりました。その時、自然とイエスの復活を信じることができました。神は全能の神だから、神がイエスを死者の中から復活させたことを無理なく信じることができました。全能の神を信じるなら、復活を信じるのは当然だと思いました。神を信じる決心をし洗礼を受けたとき、自然と復活を信じることができました。これが第一のことです。

 多くの宗教は死を越える希望を語ります。死は人間にとって大きな問題であり、人は救いを求めます。そして人は宗教の中に救いを求めます。私には素朴な疑問がありました。死を越える希望は、人間が考え出した希望ではないか、と若い頃の私は思いました。それに対して、聖書はイエスの復活を語ります。イエスの死と復活、これは歴史の中で起きた出来事です。それゆえ、聖書が語る死を越える希望は、歴史的根拠があると私は考えました。これが第二のことです。

 このイエスの復活は、永遠の命と同じように、二つの意義があると考えます。第一は、死を越える希望を信じる根拠としての復活の意義です。第二は、キリスト者として私たちが生きる上での復活の意義です。復活がなければ、キリスト者は存在しないし、キリスト者として生きていくことはできません。復活は、キリスト者が生きる根拠となります。

秋晴れ 日曜の朝バス停で


 

永遠の命を信じる(3/3)

ローマ 6:22
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。

 この聖句は、信仰者が最終的にたどり着くのが永遠の命であると教えます。これはキリスト者が死んだ後、永遠の命に到着すると教えます。キリスト者には、死後の生があること、その生には限りのないことが教えられます。

マタイ 25:46
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。

 イエスは世の終わりにもう一度この世界においでになり、人間を裁きます。最後の審判と言います。人はイエスの前にでていかに生きたのか、裁かれます。そして正しい人たちは永遠の命にあずかるとあります。これもまた、限りのない死後の生に生きることを教えています。

マルコ 10:29~30
イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。

 イエスのためにまた福音のために生きる人は、この世で迫害を受けて死ぬかもしれませんが、後の世では永遠の命を受けるとあり、死後の生に入ることが教えられます。

 死後の生について、それが具体的にどのようなものであるのか、聖書には書かれていません。聖書は、キリスト者は神の国に迎えられると教えています。そこには神がおられます。

神の国のすばらしさを比喩として、描いている聖書箇所はあります。

ヨハネ黙示録 21:3~4
神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

 聖書は、キリスト者が永遠の命に生きることができるとの死後の希望を語ります。同じことを「神の国に迎えられる」という言葉で聖書は語ります。

 讃美歌30番は、キリスト者の信仰を語ります。

かがやくとこ世のあした
わがたまめさむるとき
この世の朝よりきよく
あおぎみん 神のみかお

 キリスト者は、神の国に目覚め、神のをみ顔をあおぐという希望に生きることを歌っています。

 永遠の命には、今、この世にあって信仰者を生かす命という意味と死を越える生を示す意味と二つの意味があります。

フジバカマ 近くのお寺の境内で

 

永遠の命を信じる(2)

ヨハネ 6:47
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

 ヨハネによる福音書によると、キリスト者は永遠の命をすでに得ています。キリスト者は永遠の命を与えられ、永遠の命に生かされ、信仰者として歩みます。キリスト者は永遠の命を与えられ、新しく生まれ変わります。そのしるしは、キリスト者が、神を礼拝し、神に祈り、また聖書を読む生活を始めることに現れています。そういう生活は今までしてこなかったのです。

 キリスト者は、神との交わりに生きるように永遠の命を与えられていると考えます。礼拝をする、祈る、聖書を読む、ここには神に向かう姿勢があります。また説教を聞く、聖書から学ぶ、そこには神からの働きかけを受けとめる姿勢があります。神の教えに従う、これは神の御心への応答と言えます。

 キリスト者は、神との交わりに生きるようになります。そしてその神は、父なる神であり、キリスト者は神の子であり、神を父と呼びます。キリスト者は、神との間に父と子の関係を持ちます。この父と子の関係は、永遠です。キリスト者の肉体の死をもって終わることはなく、死を越えて、神はキリスト者の父です。そしてキリスト者を神の国に迎えてくださいます。

 永遠の命をいただくとは、決して終わることのない関係を、父と子の関係を神との間に持つことを意味すると信じます。父なる神は、キリスト者を神の子とし、この世にある時も、この世の生を終えても、死を越えて、キリスト者を神の子として覚えてくださると私は信じます。

 そして永遠の命を受けるとは、神との交わりに生きる歩みが始まることを意味すると信じます。

ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

ヨハネ一 1:3
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

ランタナ 散歩道

 

「永遠の命」を信じる(1)

ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 礼拝の中で「使徒信条」を告白します。使徒信条の最後に「永遠の命を信ず」と告白します。キリスト者は永遠の命を信じると告白し、死を越える希望を告白します。

 世にある宗教は、何らかの形で死を越える希望を語り、人が死んだらどこに行くのかを語ります。仏教では浄土、極楽に行くと教えられているのでしょうか。

 ヨハネ福音書3章16節は、神の独り子すなわちイエス・キリストを信じる人は滅びることなく永遠の命を与えられると告げます。私は、この言葉は真理であると信じます。

 ヨハネ福音書によると、神が御子を世に送ったのは、御子を信じる者が永遠の命を得るためであるとあります。また御子を信じる者は、永遠の命を既に得ているとヨハネ福音書に書かれています。

ヨハネ 3:36 
御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。

ヨハネ 6:47
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

 私はキリストを信じる前は、永遠の命を与えられていませんでした。しかし信じた結果、永遠の命を与えられたと信じます。ただ永遠の命を与えられていることは実感できないと考えています。でも永遠の命を与えられている「しるし」はあると考えます。キリスト者として歩んでいるからです。永遠の命が与えられているので、自分はキリスト者として歩んでいると考えます。自分がキリスト者として生きている、それは永遠の命を与えられている「しるし」であると私は考えています。

 ですから私は、<キリスト者だからこうしなければいけない>と考えるのではなく、<キリスト者だからこうしよう>と考えるようにしています。自由な心で神に従う歩みをしたいと考えています。私は永遠の命を与えられ、新しく生まれ変わったと信じるからです。

秋明菊 近所のお寺の境内で

 

聖書小黙想 ペトロの手紙一1章18~19節

ペトロの手紙一 1:18~19
知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。

 私は若い日、むなしさを覚えていました。どうしたらむなしさを克服できるかと色々試みましたが、解決は与えられませんでした。ある時、そのためなら死んでもいいと思えるようなことをしたいと願ったことがあります。そのようなものがあれば、むなしさに打ち勝つことができると考えたのです。

 ある時、教会の礼拝に誘われ、紆余曲折ありましたが、洗礼に導かれました。このペトロの手紙の中に、空しさからの救いについての記述を見つけたときは、うれしかったです。

 口語訳聖書の伝道の書、新共同訳聖書ではコヘレトは、そのテーマは「空しさ」です。口語訳聖書では「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である」、新共同訳聖書では「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」とあります。昔から人は空しさを感じてきたのだと思います。ペトロの手紙一にも「先祖伝来のむなしい生活」とあります。

 なぜ人は空しさを感じるのでしょうか。神から離れて生きるから空しさが生じる、それが聖書の答えだと思います。人が神にかたどって、神に似せて造られたのは、人が神を信じて、神との交わりに生きるためであると考えます。つまり神との交わりに生きる、それが神に創造された人間の本来の生き方であると聖書は告げています。この道を外れるから、空しさが生まれるのだと思います。

 空しさから救われるのは、「金や銀のような朽ち果てるものにはよら」ないとあります。若い日の私は、何をしたら、何を得たら空しさから救われるのかと色々取り組みましたが、空しさからの救いはありませんでした。聖書を知らなければ、神との交わりに生きることを知ることはなかったのです。

 空しさから私たちを救うのはキリストの血であると書かれています。血、それはキリストが自分の命を犠牲にしたことを意味しています。つまりキリストは十字架で人を罪から贖ういけにえとして、死んだことを意味します。キリストは人を救うために自らの命を犠牲にしました。そこにはキリストの私たちへの愛があります。人を神から離れさせるもの、それは罪です。罪からの救いこそ、空しさからの救いです。罪からの救いは神との交わりを目指します。さらに言えば、神に愛され、神を愛する、そこにむなしさから解放された命豊かな歩みがあります。

野菊 近くの里山で

 

救い、神との交わりという視点(5/5)

 神との交わりに生きる、それは具体的にどうすればよいのでしょうか。人それぞれの答えがあると思います。

 神との交わりに限らず、夫婦の交わり、親子の交わりで共通していることは相手を愛するということです。それゆえ相手の心を尊重します。また相手のことを知ろうとします。ただ現実においては、人間は自己中心、自分第一になる傾向があるので、相手の心を尊重すること、相手を知ることが不十分になります。

 私が神との交わりに生きようとしたとき、神を知る努力をしました。聖書を通して、私たちは神を知ることができます。たとえば聖書を1ページ読み、神さまがどんな方と描かれていたかを考えます。神を知り尽くすことはできません。知りうる範囲で神を知り、神を信頼する歩みに努めます。また人はいかに生きるべきか、神さまがどのように考えておられるのかも知ろうとします。これもまた聖書に書いてあります。

 人はいかに生きたら良いのか、それは聖書に書かれています。たとえば、自分を愛するように隣人を愛しなさいとの教え、戒めが聖書に書かれています。私はこれをキリスト者が守るべき教えと理解するのをやめました。聖書を通して神さまが私に語りかけてくださる言葉と理解するようにしました。「私はあなたにこう生きてほしいんだ」と神さまが語りかけてくださっていると受けとめます。これは聖書の教えだから守らなければならないとは考えません。そもそも神さまの教えなら、人間を祝福する教えであり、それを守らなければならないとキリスト者が考えるのは、論理的におかしいです。守りたいと考えるのが自然です。

 聖書を通して、神さまは教えてくださるのでそれに従います。また私の方から神さまに祈り、御心に従う努力をします。そのように双方向のやりとりがあり、交わりが成立していると考えています。人生色々なことが起きますが、神との交わりに生きる限り、安心して生きていけます。救われた歩みをすることができます。感謝なことです。

キキョウ 近所のお寺の境内で

 

救い、神との交わりという視点(4)

 人は、神との交わりに生きる時が、人間らしく、そして祝福された歩みができると信じます。聖書によれば神は御自分にかたどり、御自分に似せて人を造られたとあります。それは何のためだったのでしょうか。人間は神との交わりに生きるように造られたのです。だから神との交わりに生きることが、人間にとって最も幸いとなります。

 神は人間を愛され、また人間も神を愛するようにと教えます。神との交わりに生きるとは、神に愛され、神を愛して生きるということです。これを幸いとすることです。実際、神との交わりに生きる努力をするとき、人は幸いを感じます。

ガラテヤ 5:22~23
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

 キリスト者は聖霊に導かれた歩みをします。聖霊の実を結ぶのがキリスト者です。その実が何かガラテヤ書は書いています。

 私自身キリスト者として歩む中で、心の底にはいつも平安があります。それは神がいつも共にいてくださることを信じることから生まれる平安です。神が共にいてくださる、それがまた喜びとなります。自分が神に愛されていると信じることができるなら、揺るぎない人生を歩むことができます。また家族を愛することも教えられました。

 上に掲げた幸いは、神との交わりに生きるから与えられるものと私は考えます。交わりに生きるとは、そこには、やりとり、コミュニケーションがあります。愛すること、愛されることを生活の中で体験します。それが幸い、祝福となります。

 人は罪深い面があります。つまり自分中心に物事を考え行動するという面があります。その場合、人は相手の心を考えるより、相手が自分の心を大事にすることを求めます。神との交わりに歩もうとするとき、神の御心を大切にすることが必要となります。愛するとは、相手の心を大切にすることです。神の御心を大切にするようになるには、自分中心の心、自分第一の心が変えられる必要があります。そのためには聖書を読み、神がいかなる方かを知り、神の御心を知り、それを大切にするようにすることが大切となります。それは聖霊の導きにより可能となります。

 神との交わりに生きる人、神の御心を大切にすることができる人は、夫婦関係、親子関係において、相手の心を大切にすることができる人です。神との交わりに生きない人、神との交わりを知らない人は、結局、自己中心になってしまいます。

 神との交わりに生きる中で幸いな歩みをする、それが救われて生きることだと私は考えています。

キンモクセイ 良い香り