holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

それでも人は生きて行く

 この数日、何人かの人に出会い、私の脳裏に浮かんだ言葉が「それでも人は生きて行く」でした。「それでも」、つまりどんな逆境の中にあっても、人は生きて行く、生きていかなければならない、生きることをあきらめない、そんな思いをこめた言葉です。

 あるお年寄りから祈って欲しいと言われました。非常に高齢の方です。医師から心臓の手術を勧められたそうです。その医師は「心臓」しか見ていないのかもしれません。彼の年齢を考えたら、その体力を考えたら、手術を勧めることが最適な判断なのか。しかし手術をしなければ、心臓にいつ問題が発生して死に至るかもしれません。「何を祈って欲しいのですか」と聞きました。決断に迷っているので、神さまの導きを祈って欲しいとのことでした。神さまの導きにより、決断ができるように祈りました。リスクを負って手術をするのか、自分の年齢を考え手術はせず、残りの人生を神様にゆだねるのか。むずかしい判断です。それでも決断をして生きていきます。

 NHKのBS放送で「がいろく」という番組があります。街頭で歩いている人に声をかけ、インタビューします。沢山の人にインタビューし、その中から選ばれたものが放映されていると思います。えっ、そんな人生を送ってきたの、と思わされることが多いです。だから興味深いです。でもみんな辛いこと、苦しいことを経験し、乗り越えて生きています。

 わたしの身にどのようなことが起きるのか分かりませんが、「それでも私は生きて行く」。そんな思い・覚悟を新たにしました。

 

イエスの恵み(7)K牧師との出会い

 神さまは、人との出会いを私に与え、牧師としての私の歩みを導いてくださったことをあらためて思います。私はクリスマスに洗礼を受け、一年経ってから神学校に行きました。私は信仰生活の積み重ねがないままに神学校に行き、牧師となりました。信仰とは何か、教会とは何か、十分に理解していないまま牧師となりました。足りない者でしたが、もちろん、精一杯力を尽くして神と教会に仕えました。

 最初に赴任したのが三重県の鳥羽教会でした。その当時尾鷲教会におられたK牧師との出会いは忘れられません。ある時、K牧師を訪ねたのです。こたつに入って話をしていたとき、彼の幼い子どもが彼にじゃれるのです。お父さんが好きなんでしょう。彼は子どもを肩にのせたり、抱いたりしました。それを見て私は愕然としました。私の3歳の長男は、私にじゃれることなど一度もありません。私に親しみを感じていないのです。無理もありません。

 私は夜間の神学校に行っていました。昼間は仕事です。結婚して子を授かっても子どもと接する時間はありませんでした。牧師となってからは、説教の準備で時間を取られ、親ではありましたが、子どもと遊ぶことが少なかったのです。あのじゃれる親子の姿を見て、私は考えざるを得ませんでした。

 それから毎日時間を決めて長男と遊ぶようにしました。しかも腕時計を見ながら。子どもを本当に愛しているの、と聞かれても返事はできなかったと思います。やがて時計を見ることもなく、一緒に遊ぶことが楽しくなってきました。K牧師を訪ねたことは、思いがけない経験で、親としての自分のあり方を学んだ貴重な体験でした。もしこのことがなかったらと思うとぞぉっとします。

 K牧師からは今ひとつ、「敬虔」ということを教わりました。尾鷲教会はホーリネスの教会でしたから、信仰者として「聖潔」「聖化」を目指すことに力点をおきます。私は彼からアンドリュー・マーレを紹介され、マーレーの本をずいぶん読みました。神さまの御心に従って歩み、聖なる者を目指すことを教わりました。

 

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石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも

天智天皇の第7皇子。志貴皇子の歌。散歩道にこのような万葉集の歌を書いたものがいくつも見受けられます。さすが奈良。

 

 

 

 

私が直面する宣教の壁(2)

 それは聖霊信仰です。私が属する日本キリスト教団の多くの教会で使徒信条が告白されていると思います。その中に「われは聖霊を信ず」とあります。「わたしは聖霊を信じます」と告白する人は、一体何を信じているのかと思うのです。使徒信条を告白するから、「われは聖霊を信ず」と告白しているのであり、何を信じているのかと問われると戸惑いを感じると言われる方が多いのではないかと推測をします。中には、私たちは三位一体の神を信じており、聖霊が神であることを私は信じている、と言われる方もおられると思います。

 聖霊を信じる信仰が私たちの信仰生活の力となり、また伝道の力となっているのか、と私は言いたいのです。言うまでもありませんが聖霊は力、パワーではありません。人格を持つ神です。聖霊が私のうちに住んでくださり、私を生かしてくださるという信仰に生きているのかどうか。

私が大切にしているハイデルベルク信仰問答が聖霊について語っていることを紹介します。

問53
「聖霊」について、あなたは何を信じていますか。


第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ。
第二に、この方はわたしに与えられたお方であり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。

  第二の「わたしに与えられたお方であり」は、聖霊が私のうちにおられることを意味しています。信仰問答は聖書の箇所を指示していますので、それを紹介します。

コリント一6章19節。
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

コリント二1章22節
神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。

ガラテヤ4章6節
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。

 聖霊が自分の内に住んでおられることを信じること、これが教会の中で当たり前のこととなるのはいつになるのでしょうか。聖霊が自分の内に住んでおられることは実感できませんから、実感できないことをどう信じるのか。天の父なる神の存在も、実感できるものではありませんが、人は信じます。

 聖霊が自分の内に住んでおられることを信じること、それはただ信じるだけではなく、キリストとそのすべての恵みを受け取るように信じること、それはどうしたら可能となるのでしょうか。その道筋は何なのでしょうか。教会の中で聖霊信仰が具体化していない、ここに大きな壁を私は感じています。

 

 

 

 

 

習慣について

 私たちの生活は習慣の集合です。わが家では、毎朝7時前に起きます。毎朝私が食事を作ります。毎朝の食事はいつも同じです。食事が終われば後片付けをしてコーヒーを淹れて飲みます。これらを「朝の儀式」と私は呼んでいます。

 新しい習慣を身につけるには努力が必要です。NHKの「ためしてガッテン」という番組で北欧のある国では虫歯が少ないそうで、なぜ少ないのか、教えてくれました。歯磨き粉(フッ素配合)で歯を磨いた後、口の中をゆすがないのです。そうするとフッ素の効果が長持ちするというのです。口をゆすいだら、フッ素の効果が減少するというのです。この方法を紹介したゲストは「この方法は日本で根付かないと思います」とコメントしていました。口の中をゆすがないことができるのか、というわけです。

 私はやってみようと思いました。今日までずっと続けています。最初のうちには、口をゆすぐコップが目の前にあると無意識のうちにコップに水を入れ、口をゆすいでしまいます。何十年にもわたる習慣ですから、うっかりするとこうなります。そこでコップを遠くにおいて口をゆすがないようにしました。そうすると意識しますから、ゆすがずにすみます。

 次の段階は、コップを目の前においてもゆすがないようにできるかです。時々失敗しますが、コップが目の前にあっても、ゆすがないようにすることができるようになりました。一つの習慣を身につけることは簡単なことではないです。虫歯になりにくくなるというメリットを得るための習慣はする価値があると思って、新しい習慣を身につけようとしています。

 祈りの習慣も身につけることは簡単ではないです。私は祈りのソフトを使っています。祈りの課題を入力しておきます。パソコンを前にしてそのソフトを起動して祈ります。30~40分ほど祈ります。スマホとパソコンを同期させ、スマホでも祈ることができるようにしてあります。出かけるときは電車の中でも祈ることができます。しかしつい、やることがあったりすると忘れて、日々の生活に流されてしまいがちです。朝祈れないときは、午後、場合によっては夜祈るようにしています。何とか祈りを習慣にしたいと思っています。私にとって祈りは、しなければならないものではなく、神さまとの交わりなので、喜んでしようと思っています。

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夏空が恋しいこの頃

 

 

私が直面する宣教の壁(1)

 以前から感じていた壁とでもいうべき問題があります。それは引退してから、いくつかの教会で説教奉仕をしたときも「やっぱり」と感じた問題です。それは福音を「罪の赦し」に狭く限定して考えていることです。罪赦され永遠の命を与えられる、これが福音、と考える傾向が強いことです。

 このことを強く感じるのは、礼拝の司式をする教会の長老・役員の方の祈りを聞くときです。私が牧師として奉仕した金沢元町教会に赴任したときもその傾向がありました。私が信じる福音を宣べ伝えることによって、司式をする長老たちの祈りが変わってきたことを私はうれしく感じました。

 私が考える福音は、もちろんイエス・キリストの十字架と復活にあります。十字架と復活がどんな恵みを私たちにもたらすか、です。

  • 罪の赦しの恵み
  • 新生の恵み(キリスト者は生まれ変わった存在、神の子)
  • キリストに結ばれて生きる恵み(キリストと共に死に、キリストと共に生きる)
  • 聖霊の内住の恵み(信仰者のうちに聖霊が住んでくださる)
  • 律法の支配下ではなく、恵みの支配下に生きることができる恵み。
  • キリスト者の成長(キリストの似姿に成長する)の恵み

 礼拝における長老の方たちの祈りを聞くとき、「罪の赦し」の恵みに対する感謝の祈りはささげられますが、他の救いの恵みに対する祈りはほとんど聞きません。もし私が求道者だったら、クリスチャンになりたいと思うかどうか。クリスチャンの魅力が伝わってきません。

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ランタナ 散歩道にて


 教会の長老・役員の方たちは、礼拝を真剣に守り、説教もきちんと聞いておられます。ですから「説教」が問題なのです。罪の赦しは語られますが、それ以外の項目はあまり語られません。それは言い換えると説教者自身が、罪の赦し以外の救いの恵みを受けとっていないということを意味しています。とすればこれは非常に深刻な問題です。

 

 

 

聖霊の導きを求めて(20)

 私が求道者の頃、「行ってみたら」と言われて行った教会の祈祷会。牧師の聖書講解の話が終わると、参加者が一斉に異言で祈りだし、私は怖くなって逃げ出したことを「聖霊の導きを求めて」の第一回で書きました。その教会は久遠キリスト教会といいます。その時の指導者は丹羽鋹之牧師でした。丹羽牧師が聖霊を求めた次第も書きました。

 この丹羽牧師が晩年、後にこの教会の牧師となる弟子となる人に語った事があります。祈祷会に出席する人たちは異言で祈っていました。つまり異言の賜物を受けているわけです。その信仰者たちを丹羽牧師が見て日頃感じていたことがありました。一つには、愛の実を結んでいない、ということ、二つ目に、肉の性質が見え隠れしている、ということです。私たちが肉の性質に打ち勝って行くことを聖化と言います。それが見られないと語られたのです。

 パウロはコリント一13章でこう語っています。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

 異言の賜物、それは聖霊の賜物ですから、与えられることはすばらしいに違いありません。しかし愛がなければ空しいとパウロは語ります。丹羽牧師の心には、無念な思いがあったのではないかと推測します。また私は、異言を語る牧師から聖霊のバプテスマを受けていないということで見下されるような思いを2、3回味わったことがあります。人を見下すことが愛の業ではないことは明らかです。

 私の中に芽生えた確信、それは聖霊に導かれて神さまの言葉に生きることの大切さです。これしか愛の実を結ぶ道はありませんし、肉の性質に打ち勝つ道もありません。私はそう確信しています。自力で愛の実を結び、肉の性質に勝つことは不可能です。それができるなら、福音は必要ありません。

 デボーションは聖霊に導かれて神さまの言葉に生きる一つの方法です。聖書を思いめぐらし、自分に対する神さまの導きを受け取ります。そうは言っても、どうして聖霊に導かれていると分かるの? 神さまの導きを受け取るといっても、それが本当に神さまの導きだとどうして分かるの?という疑問が出されます。私は、聖霊が導いてくださっていると信じ、神さまの導きを与えてくださったと信じてこれと取り組んでいます。

 1994年6月、生ける神さまを知りました。1995年9月、聖霊が私のうちにおられるとの確信に導かれました。1996年1月、超教派の集会でデボーションを知りました。これら一つ一つは私にとってかけがえのない神さまの導きであったと信じています。

 

折々の恵み

 先日ある姉妹から手紙をいただきました。そこには礼拝で語られた言葉、しかも姉妹の心にスーッと入ってきた言葉が書かれていました。

わたしたちがしのこした仕事を主なる神さまはすべて受けとめてくださいますから、安心して、主におゆだねにして、眠ればいいのです。主ご自身が守ってくださるのでなければ・・・・

 説教は詩編127編をもとに行われました。

主御自身が建ててくださるのでなければ
家を建てる人の労苦はむなしい。
主御自身が守ってくださるのでなければ
町を守る人が目覚めているのもむなしい。
朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。

 私は牧師の務めを引退しました。現役から退きました。だからといってこの国における福音宣教に無関心になってよいわけがありません。福音宣教を忘れて余生を楽しむことはできません。自分は福音宣教という使命に今も生きる者であると考えています。そして自分に何ができるのかを祈りながら考えています。

 現役の時は、仕えている教会のことで精一杯でした。引退して、いくつかの教会に説教奉仕をして、少し広い視野で教会を見ることができました。すると大きな壁とでも言えるような課題、問題が見えてきます。それに対して、自分はどれほどのことができるのか、と考えます。

 課題・問題の大きさに比べて自分の力の小ささを知らされます。ですから、自分にできる精一杯のことをして、あとは神さまにゆだねればよい、ということは分かっています。分かっていますが、心の中にはいろいろな思いも湧いてきて、心が揺れ動き、定まらず、平安が失われていきます。最近はその傾向がありました。そんな時に手紙が来たのです。

 いただいた手紙の文章を読んだとき、心に入ってきました。自分の働きは、神さまに用いられるに過ぎないことをあらためて知らされ、謙遜になるように導かれました。同時にできる精一杯は行い、神さまにゆだねるようにしたいと思いました。私の心にも、人から認められる働きをしたいとの思いがくすぶっているようです。神さまは一人の姉妹を通して、私に語って下さいました。私を顧みてくださる神さま、あなたに感謝し、あなたをたたえます。

讃美歌48番が心にひびきます。

日かげもやすろう ころにしあれば
父にぞゆだねん  きょうまきしたねを

 

日ごとわがなす あいのわざをも
ひとに知らさず かくしたまえや