クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

愛は自慢せず、高ぶらない

 コリントの信徒への手紙13章を今ディボーションしています。愛について一つ一つ思いめぐらしています。

 自慢すること、高ぶることに共通していることは自分をよく見せようとすることです。自分を称賛に足る人物であると見せようとすることです。具体的には自分がどのようにすぐれているかを語ること、それが自慢することです。コリント教会では霊的賜物を受けていることを自慢する人たちがいたようです。特に異言を語る賜物を与えられた人たちが自慢していたようです。自慢し自分を誇る態度が高ぶりとなって現れます。そこには霊的賜物を持たない人を軽視する気持ちが隠れていると思われます。

 自分をよく見せようとすることは誰にでもあると言ってよいと思います。イエス様から偽善者と批判をされた律法学者たちは人前で祈り、自分は敬虔な信仰者である、と誇りました。キリスト者も、自分が立派な信仰者であることを認めてもらいたいと思って、右手のしていることを左手に知らせるようなことをすることがあります。

 自慢や高ぶりがなぜいけないのでしょうか。自慢する本人は気づきませんが、ある意味見苦しい行為です。周囲の人は「すごいね」とかいっておだてるかもしれませんが、内心では冷ややかに見ているかもしれません。不快な気持ちを周囲の人に与えかねません。

 また自慢や高ぶりは、他者に対する思いやりを欠くことにつながるからではないか、と考えます。自慢する人、高ぶる人は、自分に関心がありますから、他者に対する関心は薄れます。自己中心的になります。キリスト者は他者に対する関心を大切にすべきなので、愛は自慢せず、高ぶらないと教えられるのだと考えます。

 さらに教会の中に自慢をする人が何人もいたら教会はどうなるでしょうか。人を妬んだり、人を軽んじたり、非難などが生まれるかもしれません。教会の一致を妨げます。パウロは教会の一致、教会がキリストの体であることを考え、愛は自慢せず、高ぶらないと教えたのではないかと思います。

 自分は自慢はしていない、高ぶってもいない、と語るキリスト者は多いと思います。パウロのこの教えを思う時、では愛は何をするのだろうと思います。自慢しない、高ぶらないという態度を裏返すとどうなるのかということです。そこで思い出す聖書の箇所があります。

フィリピ 2:1~5
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

 教会の中で、互いに同じ思いを抱き、思いを一つにする努力、へりくだって他者を自分より優れた者と考える努力、そして他者のことに注意を払う努力、このようなことが「愛は自慢しない、高ぶらない」の積極的な内容ではないかと思います。そして教会の中だけでなく、家庭において、家族に対してもこのような努力をするなら、それは尊い努力だと思います。

 それで夫婦二人の自粛生活をしている私は、妻を自分よりすぐれた者と考え、何が優れているのか、考えてみたいと思いました。

 

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寒さのなか咲くバラ 散歩道

 

勝利の道は目の前に

 神の教えに従って生きようとするキリスト者の心は戦場です。キリスト者である「私」は聖霊の導きにより神の教えに従おうとします。善を行おうとします。しかし「罪」は肉を通して働きかけ、肉に従うように「私」を攻撃します。「罪」は私に対して、神の教えに反発を感じさせ、逆らうように働きかけます。そして「私」は敗北します。わたしはなんとみじめな人間なのでしょうと告白します。これは誠実なキリスト者の深刻な告白です。

 昨日は私の経験をお話ししました。もう一つ体験談をお話しします。私が最初に仕えた教会にいたときのことです。私が赴任する前に既に教会は移転用の土地を購入してありました。赴任後4年目にその土地に新しい会堂を建てました。その後のことです。いたずら電話がかかってくるようになりました。最初は無言の電話でした。やがて妻が電話に出るとひどい言葉を浴びせられるようになりました。

 電話の内容を録音しました。それを聞いているとだれがかけているのかおよそ見当がつきました。しかし確実にその人だとは言えないので放置しました。やがて私は別の教会に転任し、いたずら電話はなくなりました。

 私は一つの聖書の読み方を学びました。ディボーションと呼ばれる読み方です。聖書を読み、思いめぐらし、その箇所から神さまの教えを読み取り、適用をするようにしました。別な言い方をすると聖書を思いめぐらす中で、神の導きを聞き取り、その導きに従います。このようにしてみ言葉に従い、神の導きに従う信仰の歩みをしました。妻と一緒にディボーションを学びましたので妻もデボーションをします。

 ある時、妻が聖書を読むと「赦しなさい」との教えが書かれていました。妻はあのいたずら電話を思い出しました。電話をかけた人を赦しなさいと神さまが導いておられると受けとめました。しかしひどい言葉を浴びせられ、赦せるものではありません。妻の心は深く傷ついていました。神さまは赦しなさいと言います。しかし、あれだけひどいことを言われたのです。赦せるものではありません。ここに霊の導きと肉の導きの対立が起こりました。心の中で戦争が起きました。

 人間に罪を犯すように働きかける勢力・力としての「罪」は、あれだけひどいことを言われたのだから、赦せるわけないよね。赦せる気持ちでないのに赦すなんて自分を偽ることになるよ、などとささやいてきます。そして神の教えに逆らわせるのです。

 心の葛藤で妻はかなり苦しみました。苦しみに耐えきれなくなり、神さまに「赦します」と告白しました。それは赦せる気持ちになったからではありません。感情的にはとうてい赦せません。だから心の葛藤は苦しいのです。他になすすべもなく神さまに「赦します」と告白しました。意志で神に従う道を妻は選択したのです。

 これには後日談があります。しばらくして御菓子が届いたのです。送って下さったのは、いたずら電話をかけた人ではないかと推測したその人からでした。妻がお礼の電話をすると「あの時はごめんなさい」との言葉が返ってきました。不思議な出来事でした。

 キリスト者は心の中の、あの葛藤に直面したら、神に従う決断をすることが大切です。この決断をすることによって新たな道が開かれてきます。罪に勝利する歩みが始まります。「清水の舞台から飛び降りる」のです。「私はみじめな信仰者だ」との思いを持ち続けて生きるのはキリスト者として敗北です。勝利の道は目の前にあるのです。

 

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水仙 散歩道で

 

キリスト者は決断をして生きる

 神の教えに従って生きようとするキリスト者の心は戦場です。キリスト者である「私」は聖霊の導きにより神の教えに従おうとします。善を行おうとします。しかし「罪」は肉を通して働きかけ、肉に従うように「私」を攻撃します。「罪」は私に対して、神の教えに反発を感じさせ、逆らうように働きかけます。そして「私」は敗北します。わたしはなんとみじめな人間なのでしょうと告白します。これは誠実なキリスト者の深刻な告白です。

 私の心は戦場なのです。聖霊の導きによって神の教えに従おうとします。しかし私たちに罪を犯させようとする勢力・力としての「罪」が肉を通してわたしに働きかけます。どちらが勝つのか、これは戦いです。キリスト者がこの戦いに直面すると最初は負けることが多いのです。

 ここで疑問が生じます。聖霊に導かれて神の教えに従おうとするのに、なぜ「罪」の力に負けてしまうのですか。聖霊に導かれるなら、「罪」の力に打ち勝って神の教えに従うことができるのではないですか。なぜ負けるのですか。

 「罪」が肉を通して私に働きかけるなら、私が罪を犯したとして、なぜこの罪を私は責められるのでしょうか。罪を犯した責任が私にあるのでしょうか。それは「罪」のせいではないでしょうか。

 かつて私は牧師をしている時、ひとりの姉妹から電話で相談を受けました。全く知らない人ですが、助けを求められました。彼女を窮地に追い込んだ人がいます。法に触れることをしているのかどうか、分かりません。私はこの人のところへ行き、話し合いをし、彼女を助けることが求められました。人を食い物にするような人です。どんな人か分かりませんが、まともに話をして何とかなるとは思えません。私は強い恐れを覚えました。

 助けを求められたから何とかしなければならないという責任感。困っている人を見過ごしにはできません。隣人を愛するなら、助けるべく行動を起こすべきです。しかし相手は、どんな人か分かりませんし、まともな人とは思えません。話し合ってうまく行くとも限らないし、自分は話しが下手だし、相手から何されるか分からないし、無力感、恐れに捕らわれました。心の中は戦いです。

 困っている人を助けたいとの思い、これは聖霊の導きです。聖霊の導きであれば逃げることはできません。一方、私の弱さを通して恐れが私の心を支配します。

 どう行動するのか、それは私が自分で選択します。聖霊は私を強制することはしません。わたしに働きかけ、私を導こうとします。最終的にどう行動するかは私の決断です。「罪」は、私に恐れを与え、やめろと働きかけます。おまえの力では何にもできないと無力感が私の心に侵入してきます。しかし「罪」もまた私を強制して私を力づくで従わせることはしません。恐れ、無力感をもって働きかけるだけです。自分が可愛いだろう、自分を大切にしろ。

 どう行動するか、それは私の決断です。私は彼女を助けるために行動しました。結果的には何の助けにもなりませんでした。でも心の中の戦いに一つの選択をし決断をしました。

 聖霊なる神は助け主です。神の教えに従うように導きます。聖霊の真の助け、聖霊の力は私が一歩を踏み出してから与えられます。神の教えに本気で従うことを示した時、聖霊の助けが与えられると私は信じます。そしてここから、心の中の戦いに勝利する道が開かれます。

 キリスト者が犯す罪とは、「罪」の働きかけに負けることだと考えます。負けることを自分に許してしまうことが罪を犯すことだと私は考えています。悪いと分かっていてその悪いことをしてしまう、これがキリスト者の罪です。
 

 

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散歩道

 

 

愛はねたまない

 口語訳の旧約聖書で、神さまはご自身のことを「ねたむ神である」と語られました。神さまがねたむ神だなんて驚いてしまいます。何を意味しているかといえば、人間が唯一の神さまを拝まず、偶像礼拝を行うとき、神さまは偶像に嫉妬するというのです。神の民イスラエルの心がご自身ではなく、偶像に向かっていることに対して神はねたむのです。焼き餅を焼くわけです。イスラエルの偶像礼拝、不信仰を非難する言葉が「わたしはねたむ神である」という表現で現されているように思います。神さまは嫉妬に駆られて滅茶苦茶な行動をされることはありません。

 「愛はねたまない」とあります。私たちは誰もがねたみを経験したことはあると思います。自分にないものを他者(ひと)が持っていると、その他者をねたむのです。自分にないものを他者が持っていると、私たちはうらやましく思います。このうらやむ思いは、ねたみに変わることがあります。ねたみには相手に対する敵意が含まれているように思います。ねたみは他者を敵にしてしまいます。その敵意は時に相手を傷つける行為となって現れることがあります。敵を作り敵を攻撃する、それは愛ではありません。だから愛はねたまないと教えられます。

 そうはいっても私たちは人をうらやんだり、ねたんだりします。他者(ひと)は自分とは違います。その違いが劣等感となったり、優越感になったり、うらやみ、ねたみを生んだりします。私より深く物事を考えることができる人、私より聖書の言葉をよく知っている信徒、私より神学的な知識の豊かな人、いい説教をする人。うらやましく思う人と何人も出会いました。私の場合は、ねたみより劣等感を感じました。

 そこで自分と他者を比較しなければいいとの忠告が生まれます。人間はロボットではありません。ロボットなら同じものを大量に生産できます。人はロボットではなく、一人一人が個性を持ちます。私たちは自分と他者との違いに気づきます。気づくと何らかの思いを抱きます。ねたみを抱かないためには、自分は自分、他者(ひと)は他者(ひと)と割り切って対処することができます。これは人の知恵です。

 聖書から考えるとどうなるのだろう。私が経験から学んだことは、神との関係で自分を見ることです。私はねたみに対して次のように対処しました。自分は神に愛されている、それで十分ではないかと考えました。人と自分を比較しません。私の存在が神さまに受け入れられているなら、自分でも自分を受け入れるべきだと考えました。そして自然に自分を受け入れることができるようになりました。人間的な知恵と違うことは、神さまに愛されていると考えることにより、自己肯定ができる点です。自分はこれでいいのだ、と自分で自分を受け入れることができます。

 聖書にはタラントのたとえがあり、人は自分に与えられたタラントに応じて生きれば良いと教えられます。タラントの大きい人をうらやむ必要はありません。タラントの大きい人は、それだけ大きな責任を負うことになります。ある意味大変です。自分に与えられたタラントの量、それは自分にふさわしいと考えるのがよいと実感しました。牧師として現役で働いている時、有能な牧師がいました。彼は色んな場面で用いられます。用事で出かけることも多いのです。じっくり机の前に座る時間は少ないです。そして少ない時間の中で毎週説教の準備をします。それは私にはできません。能力のある人をうらやむ必要はないと実感しました。

 ねたみに対処することは若い時の課題でした。ねたみと劣等感は裏腹です。ねたむ思いは相手に向けられ、劣等感は自分に向けられます。私は自分は神に愛されていると考え、自分を肯定し受け入れることができました。自分の個性を感謝することができるようになりました。このような経験はキリスト者のアイデンティティーを考えるように私を導いてくれたと思います。

 キリスト者はイエス・キリストに結ばれ、神の子とされます。そこで大切なことは神の子として生きることです。そこでは自分と他者を比較する必要なんて少しもありません。比較をやめます。もし比較して、他者のすぐれた点に気づいたら、それはその人の個性と受けとめればよいだけです。ひとをうらやむ、それは肉の人のすることです。

コリント一3:3
お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。

 私たちはキリスト者として霊の人になることが大切だと考えます。ねたみから自由にされた霊の人を目指せばよいのです。ねたむ思いが湧いたら、霊の人を目指そうと気持ちを切り換えたらよいです。ねたみを覚えることは、自分の歩みを転換するチャンスです。肉の人から霊の人へ変わるチャンスです。

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白い木の実 散歩道

 

私は生かされているのか

 時々、「私は生かされている」と語るのを聞くことがあります。でも「誰に」生かされているのかは語られていないように思います。おそらくなにものかによって命を与えられ、自分は生かされていると感じるのだと思います。生かされているゆえに感謝の言葉も出てきます。「私は生かされている」との言葉は謙遜な言葉だと思います。私は神を信じているのに、「神さまに生かされている」という実感はありません。もちろん神さまのご意志によって私が生まれたと信じていますし、私は偶然に生まれた存在ではないと考えています。しかし「生かされている」という実感はありません。「生かされている」とも考えません。なぜなのかと思います。

 なぜ、と特に考えることもしませんでしたが、先日ちょっと考えました。そして分かったように思いました。それは聖書は、私たちに「生きる」ように命じているからではないかと思いました。たとえば悪魔に誘惑された時のイエスさまの言葉。

マタイ 4:4
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」 

  人は神の言葉で生きる、と書かれていて、人は神の言葉によって生かされているとは書かれていません。「人は、神の言葉で生きる」との言葉は、人が神の言葉によって主体的に生きることを伝えています。

 ヨハネ福音書には、イエス様を信じる者は生きる、ということが繰り返し書かれています。

ヨハ 5:25
はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。

ヨハ 6:51
わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。

ヨハ 11:25
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。  

ロマ 6:4
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

ロマ 6:8
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

  神さまは、私たちが「生きる」ことを願っておられることを思います。私たちに求められるのは、信仰によって生きることだと思います。キリスト者の誰かが「私は神に生かされている」と語ったとしたら、私は「どんな風に生かされているの」と突っ込みを入れ、その人の証しを聞きたくなります。

 そんな私でしたが、愛が何かを語るパウロの言葉に驚きました。愛が何かを語る時パウロは「愛は忍耐強い」(コリント一13:4)と語りました。パウロは聖書から、神の愛はその忍耐強さにおいて現れていると知ったのだと思います。そこで、神の忍耐強さによって私は生かされているのではないかと思うようになりました。

 神さまは私が真理を悟るのを忍耐強く待っててくださったと思いますし、今も待っておられるのではないかと思います。

 最初の真理は、イエス・キリストが救い主であるという真理。私が洗礼を受けたのは30才。生まれてから30年間、この時がくるのを神さまは忍耐強く待っておられました。二番目は聖霊が私の内に住んでおられるとの真理。イエス様を信じる者は賜物として聖霊を受けると聖書に書かれていますが、それが本当だと知った日が到来しました。聖霊を求めてあがいた日々、神さまは忍耐強く私を待っていてくださったことを思います。

 三番目はキリスト者のアイデンティティーを知ったこと。信仰者として、牧師としての自分の未熟さに思い悩む中で、キリスト者のアイデンティティーを知り、自分を受け入れ、自分を喜ぶ者とされた日が到来しました。神さまは忍耐強く、私が神様に造られたことを喜ぶ時を待っててくださいました。

 四番目は、キリストの福音が罪の赦しと罪からの解放の福音であるとの真理を知ったこと。私を牧師に召し、福音を伝える器として神さまは用いてくださいますが、伝道者として遣わされた時から、長い間神さまは忍耐強く、私が福音が何かを知る日を待っておられたのです。

 神さまは焦ることなく、忍耐強く、私の成長を見守り、導かれたと信じます。神さまの忍耐強さによって私は生かされていたのだと少し感じるようになりました。

 

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奈良盆地。遠くに生駒山。散歩道で。

 

わたしはなんとみじめな人間なのでしょう

 霊の導きに従おうとしても肉の力が強くて、自分のしたいことができない時、私たちの口から出る言葉は「わたしはなんとみじめな人間なのでしょう」です。この言葉は使徒パウロが書いている言葉です。パウロはこのように書いています。

ローマ 7:15
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。

 自分が望むこととは神の教えに従うことです。わたしは聖霊の導きによって神の教えに従おうとしているのです。しかしわたしは憎んでいることをするというのです。つまり神の教えに従わない行動をしているというのです。

 わたしの心は戦場なのです。聖霊の導きによって神の教えに従おうとします。しかし私たちに罪を犯させようとする勢力・力としての「罪」が肉を通してわたしに働きかけます。どちらが勝つのか、これは戦いです。キリスト者がこの戦いに直面すると最初は負けることが多いのです。

 色々な誘惑があります。この誘惑には負けないぞ、と思っても誘惑に負けることがあります。また神の教えとして「○○しなさい」と教えられても「いやだな、抵抗を感じるな」と言って、結局神の教えに従わないことがあります。そうした時、私たちはしばしば自己弁護します。自分の非を認めたくないのです。もし私たちが神の御心に従えない時、弁解して「御心に従えない」事実と向き合わなければ、私たちは自分の罪に目をふさいで生きることになります。この戦いで自分の罪を認めることはつらいものです。また御心に従えない自分と向き合って生きるというのもつらいものです。

 パウロは驚くべきことを告げます。

ローマ 7:17
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 自分が神の教えに従えない時、わたしの中に住んでいる罪が、そうさせているというのです。さらに18節以下21節まで

ローマ 7:18~21

わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。

 善を行う意志が私にはありますが、それを実行できず、望まない悪を起こっている、それは私の中に住んでいる罪のせいだというのです。「いつも悪が付きまとっているという法則」があるいうのです。これは私たちに罪を犯させようとする勢力・力として罪が私たちに働きかけていることを意味していると考えます。

ローマ 7:22~24
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

「内なる人」とは人格としての「私」です。「私」は神の教えを喜び、神の教えに従いたいと考えています。これは聖霊の導きです。これをパウロは心の法則と言っています。そして私たちの肉を手がかりとして私たちに罪を犯させようとする「罪」があり、「罪」が私たちに働きかけることを「罪の法則」と呼びます。そして罪が勝利するので「わたしはなんとみじめな人間なのでしょう」との告白になります。

 神の教えに従って生きようとするキリスト者の心は戦場です。キリスト者である「私」は聖霊の導きを得て神の教えに従おうとします。善を行おうとします。しかし「罪」は肉を通して働きかけ、肉に従うように「私」を攻撃するのです。そして「私」は敗北します。わたしはなんとみじめな人間なのでしょうと告白します。これは誠実なキリスト者の深刻な告白です。

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ススキ 散歩道

 

 

 

霊に従うか、肉に従うか

 キリスト者が生きようとすると葛藤が生じます。肉に従うか、霊に従うかという心の戦いが生じます。肉に従って歩むキリスト者は肉の人と呼ばれ、キリストとの関係では乳飲み子です(コリント一3:1)。 

ローマ 8:5
肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。

  ここには肉に従って歩む人と霊に従って歩む人がいることが書かれています。肉とは人間の生まれながらの性質を意味します。肉に従って歩むことは、自分の思い、自分の考えによって歩むことを意味します。肉に属することとは、この世に属する事柄のことです。富、名誉、権力、自己実現などは代表的な肉に属する事柄です。そして自分はこうしたい、ああしたいという思い、欲に従って生きる人を肉に従って歩む人と言います。人は自分の思い通りに生きることができれば、まず自分は自由な人間だと考えます。

 霊に従って歩むとは、神のみ心に「自ら進んで」「喜んで」従って生きることを意味します。これは聖霊の導きの結果です。このように歩む人は霊の人と呼ばれます。この人たちは、霊に属すること、つまり神さまのことを考えます。神さまが与えてくださった救いはいかなるものか、神さまのご計画などを大切なこととして考えます。 

 キリスト者になると聖書から神の教えを学び、これに従って生きようとします。キリスト者が神の教えに従うのは自然なことであり、当然のことです。その時、「神のみ心に従わなければならないから、神のみ心に従う」と考えることがあります。「自ら進んで」「喜んで」従うのではなく、むしろ「義務」として考えるのです。「従わなければならない」と考えるのは、よいことです。神の教えに従おうと考えているのですから。しかし思いがけない問題があります。 

ガラテヤ 5:16~17
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

  「霊の導きに従う」のは、「自ら進んで」「喜んで」神さまの教えに従うことです。「肉の欲望」「肉が望むところ」とあり、人間の心には、神の教えを喜べない心、従いたくない心があります。肉の欲望は、自分の思いを実現したいと願うことが中心です。自分中心なのです。ですから肉は神の教えを聞くと反発することがあります。

 そこでどうなるかというと、「あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」。神に従おうという思いよりも、反発する思いが強く、神の教えに従うことができないという事態が起きます。あるいは「むずかしいな、無理だよ」と言った思いが湧いてきて従うことができません。肉と霊が対立しており、肉が霊に打ち勝っているように思えます。また「神に従わなければならない」と考えている場合、なかなか肉に勝てません。 

 このような事態をパウロは次のように述べています。 

ローマ 7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。

  聖霊に導かれて、神の教えを行おうとしても、私のうちにある「肉」の力がまさるのです。そして神の教えを行えないのは、私が罪に売り渡されているから、つまり罪の奴隷だからだというのです。人間に罪を犯させようと働きかける勢力・力としての罪は、私たちの肉に働きかけ、神の教えに従わないようにさせるのです。ここに神さまの教えに従いたいと思ってもなかなか従えないというキリスト者の悩みが生じることになります。

 

 赦したくても赦せない、神さまに信頼してゆだねたいけどゆだねられない、人を助けたいけど勇気がない。神の御心に従いたいと思ってもできない現実がキリスト者にはあります。霊と肉が対立するのです。

 

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今日の奈良