クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神を疑う人 私たち

 アブラハムもモーセも神を疑いました。無理もないと思います。

 アブラハムは99歳で、妻のサラが89歳で、そんな彼らに神は、子が与えられるというのです。アブラハムはひそかに笑いました。そんなことがありえるか、と。
 神はモーセに岩に命じて水を出させなさいと命じました。人々の前で、岩に「水を出しなさい」と命じて水が出なかったら人々はどう思うでしょう。モーセは何と愚かなことをしたのか、と人々は笑うでしょう。モーセは岩に命じませんでした。以前したとおり、杖で岩を叩きました。

 またイエスの弟子たちがイエスの復活を聞いたとき、信じなかったのも無理ありません。死者がよみがえるなんて前代未聞です。そんなこと起こりっこないのです。でもイエスは御自分が苦しみを受けて死に、3日目に復活されることを弟子たちに語っていました。でも死者の復活、人間の常識ではありえないことです。神だからできることです。人間の常識ではありえないことを信じるのはむずかしいです。もし人間の常識ではありえないと思うことが私たちにも起きると神が言われたらどうでしょうか。聖書にそれが書いてあったらどうでしょうか。私たちの身に起きると約束されている神の出来事を紹介します。

  • キリストを信じる人は、罪から清められる。
  • キリストを信じる人は、罪から解放される。
  • キリストを信じる人は、キリストと共に死に、キリストと共に生きる

 これらはキリストによる救いとして約束されたものです。

ヨハネ一 1:9
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

ローマ 6:22
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。

ローマ 6:8
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

 私たちはこれらのことを信じているのでしょうか。それともありえないと考え、つまり聖書のメッセージを疑い、信じていないのでしょうか。これらのことこそ福音です。これらのことを証しできなければ、伝道の実りは得られないのでは、と私は危惧しています。

買物の道で

 

神を疑う人 イエスの弟子たち

 イエスの弟子たちは何を疑ったのでしょうか。イエスが復活したと知らせを受けたとき、それを信じませんでした。疑い、信じなかったのです。

 ルカ福音書によると婦人たちが日曜日の明け方早く、墓に行きました。石が墓のわきに転がしてあり、墓の中に入っても主イエスの遺体が見当たりませんでした。そのために途方に暮れていると、天使が現れ、イエスは復活なさったのだと告げます。婦人たちは墓から戻り、弟子たちにイエスは復活されたと告げましたが、弟子たちはたわごとのように思われ、婦人たちを信じませんでした。イエスが復活したという知らせを疑い、信じなかったのです。

 マルコ福音書にも同様のことが書かれています。

マルコ 16:14
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

 弟子たちはイエスが復活したと人々が語る言葉を信じませんでした。ヨハネ福音書にはトマスが登場します。

 ヨハネ 20:24~25
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。

 他の弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言ってもトマスは信じようとしませんでした。復活した、そんなことありえない、と疑ったのです。でも8日後イエスはトマスに現れ、トマスはイエスの復活を信じます。

 イエスは生きているとき、御自身が死んで復活することを弟子たちに語っていました。

ルカ 9:21~22
イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。

ルカ 18:31~33
イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」。

 イエスは弟子たちに御自身が死ぬこと、そして復活することをすでに語っていたのです。弟子たちはイエスの言葉を聞いていたのです。でもイエスが復活したという知らせを受けても弟子たちは信じようとしませんでした。

 アブラハム、モーセは神の言葉を疑い信じませんでした。イエスの弟子たちもイエスの言葉を疑い、信じませんでした。どうして疑うのでしょうか。

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神を疑う人 モーセ

 モーセと言えば、エジプトの奴隷状態であったイスラエルの民を率いた指導者です。神から指導者となるように命じられ、イスラエルの民を率いて、エジプトを脱出し、約束の地を目指す旅をしました。途中困難に出会うと神にどうしたらよいか尋ね、神の導きを求めて歩んだ人です。

 エジプトを出てモーセに率いられたイスラエルの民は、ある海辺に着きました。するとエジプト軍が、イスラエルを連れ戻すべく追いかけてきました。前は海。後ろはエジプト軍。民はうろたえました。モーセに文句を言います。するとモーセは言います。

出エジプト記 14:13
モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない」。

 このように語ったモーセに対して神は指示します。

出エジプト記 14:15~16
主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。

 イスラエルの民は海の中を歩いて行きました。しかしエジプト軍が後を追うと別れた海はもとに戻り、エジプト軍は溺れて死んでしまいました。荒野の旅を続けたイスラエルの民は、レフィディムに到着しました。しかしそこには飲み水がありません。イスラエルの民は、私たちをエジプトから荒野の旅をしているのは、渇きで私たちを死なせるためだったのですか、と不平を言います。モーセはどうしたらいいですかと神に叫びます。神が答えます。

出エジプト記 17:5~6
主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」。

 モーセが杖で岩を打つと水が出て、民は水を飲むことができました。神は不信仰な民に神に信頼することを学ばせるために荒野で40年の生活をさせました。40年が過ぎ、いよいよ約束の地に向かって旅をします。またもや飲み水がなくて困るという事態が生じました。またもや民は不平を言います。神はモーセに指示を与えます。

民数記 20:7~8
主はモーセに仰せになった。
「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」。

 神は言うのです。「岩に向かって水を出せと命じなさい」。以前は、杖で岩をたたいて水を出しました。今度は岩に命じなさい、です。これを聞いてモーセがどう思ったのかは分かりません。モーセはどうしたのでしょうか。

民数記 20:9~11
モーセは、命じられたとおり、主の御前から杖を取った。
そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」。
モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。

 モーセは水を出すために行動しなければなりません。モーセは岩に命じませんでした。杖で岩を叩きました。水は出ました。でもなぜ岩に命じなかったのでしょうか。岩に命じて水が出るとは信じられなかったのでしょう。神の言葉を疑ったのです。神を疑ったのです。

 人間の言葉であれば、私たちは疑わないかもしれません。でも神の言葉です。人間の思いを越える神の言葉です。それを疑うのも無理ありません。しかし神の言葉を信じるのが信仰です。

 神はモーセに言います。

民数記 20:12
主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」。

 イスラエルの民は、神がモーセに岩に命じて水を出しなさいと言うのを聞いていました。モーセはその通りにして水を出すことをしませんでした。神が聖なる方であることを示さなかったと神から咎められました。その結果、モーセは約束の地に入ることを許されませんでした。

 「なぜ私を信じないのだ」と神は言われるかも知れません。

 

ニワゼキショウ 散歩道

 

神を疑う人 アブラハム

 アブラハムは信仰の父とも呼ばれる人です。しかし始めからそうだったわけではありません。神はある時アブラハムに語りました。

創世記 12:1~2
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。

→神はアブラムにあなたを大いなる国民にし、あなたの名を高めると約束しました。
その時、アブラムは75歳で、子どもはいませんでした。
妻のサラは彼より10歳年下です。
この不思議な神の約束を彼は信じ、神が示す地に向かって旅を始めました。
ここから彼の信仰の生涯が始まります。

それから10年ほど過ぎた頃、アブラムはその約束を疑い、信じなくなりました。
子が授からないからです。
しかも彼は85才ぐらいです。妻の年齢を考えれば、常識的には子を授かる可能性はありません。
しかしその時神は、アブラムに声をかけます。

創世記 15:5~6
主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる」。
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

→アブラムは、もう一度、神の約束を信じることにしました。
「主はそれを彼の義と認められた」とあります。
神の前に正しい人というのは、神の言葉を信じる人です。
しかし彼が99歳になったとき、彼にはまだ子がいませんでした。
神はアブラハムに声をかけます。

創世記 17:15~17
神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。
わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る」。
アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。
「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。

 神は、サラが男のを産むと語りました。アブラハムに子が与えられるとの約束です。この時、アブラハムは99歳。サラは10歳年下です。子が授かる年齢ではありません。アブラハムは心の中でひそかに言いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。アブラハムは、神の言葉を疑うどころか否定したのです。

創世記 21:1~2
主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。

 神の約束は実現しました。サラガ妊娠したことが分かったとき、アブラハムはどう思ったのかと想像します。また子が誕生したとき、どう思ったのかと想像します。恐らく、神はその約束を守る真実な方であると信じたと思います。アブラハムは疑う人から信じる人になったと想像します。

 イサクが8歳くらいの時と想像しますが、神はアブラハムに語ります。

創世記 22:2
神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。

 神はイサクを献げ物としてささげることを命じます。イサクをささげる、言い換えるとイサクを殺して神にささげるのです。もしイサクをささげて彼が死んだら、神の約束つまりアブラハムは大いなる国民になるという約束はどうなるのでしょうか。イサクを献げなければ神の命令にさからうことになります。この時恐らくアブラハムは迷うことなく、イサクをささげる覚悟でモリヤの地に出かけたと思います。たとえイサクをささげてイサクが死んだとしても、神は約束を実現することができるとアブラハムは確信していたと思います。

ムラサキカタバミ 散歩道

 

神を疑う人 アダム

 私は年を重ね来年は80歳です。キリスト者なので死を越える希望を聖書から与えられています。この希望を確信したいとの思いとその希望は本当に信じていいのか、という疑問、疑いが心の中にあります。この疑いにどう対処したらいいのか、一つの課題です。疑いは不信仰で、ない方がいいとは考えません。疑いがあるから、聖書を読み、確信を得る道を探すことができ、深く確信できる道が開かれると信じるからです。

 聖書には疑いを持った人たちが登場します。今日はアダムを取り上げます。神によって造られた最初の人間アダム。神はアダムをエデンの園に住まわせ、また彼の助け手として妻エバを与えました。神は一つの戒めをアダムに与えました。

創世記 2:16~17
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。

 神は、園のすべての木の実を取って食べなさいと命じました。ただし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。食べると必ず死ぬからと警告をしました。アダムはこの神の命令と警告を妻のエバにも伝えたと思います。

 ある時、蛇が現れ、エバに言うのです。

創世記 3:4
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。

 ヘビは巧みです。神はアダム、エバが賢くなるのを願っていない、だから善悪の知識の木の実を食べてはいけないと言ったのだと言うのです。アダムやエバが賢くなって欲しくないと神は考えているのですよ、ひどいですね、と暗黙に言っています。そして食べても死ぬことはありませんと言います。

創世記 3:6
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

 エバはヘビの言葉に耳を傾け、神の警告を無視しました。神の警告を疑問視しました。そしてアダムにも木の実を与えました。アダムは、神から食べてはいけないと言われているといって、断ることをせず、彼も食べました。神の警告をないがしろにしました。神の警告を疑問視し、さらには無視し、警告に逆らったのです。

 ヘビは言うかも知れません。「食べても死ななかったでしょ」。確かに彼らは死にませんでした。しかし変わったことがあります。神が彼らに近づくと彼らは身を隠したのです。神から逃げようとしたのです。彼らはエデンの園を追い出されました。彼らは神と共に生きることを失ったのです。神なしに生きる者となってしまったのです。

ヨハネ黙示録 3:1
サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。

 生きているとは名ばかりで、実は死んでいる状態にアダムとエバは陥ったのです。神の言葉を疑い、神の警告に逆らったからです。

ヒメジョオン 散歩道

 

老いのくやしさ

コリント一 13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

 私は日々の祈りの中で、「顔と顔を合わせてあなたの御顔を見ることを待ち望みます」と祈っています。説教の準備をしているときに、気づきました。讃美歌にも御顔を見ることを待ち望むことを歌っていることに。昨日寝る前に説教原稿を読み、讃美歌を歌ったのです。

 讃美歌320番(主よ、みもとに近づかん)の第4番の歌詞です。

うつしよをば はなれて
天(あま)がける日 きたらば
いよよちかく みもとにゆき
主のみかおを あおぎみん

 朝、目が覚めて布団の中で、この4番を頭の中で歌い始めました。「うつしよをば はなれて 天がける日 きたらば」と歌うと、次の言葉が出てきません。何とか思い出そうとすると「夢にもなお」との言葉が出てきました。その後が続きません。起きて『讃美歌』を見てみるとこれは2番の歌詞です。覚えたつもりでも思い出せない、くやしいです。老いたせいで思い出せないのです。くやしいです。でも悲観はしません。『讃美歌』を見て今一度覚えればよいからです。覚えました。明日の朝、思い出せないかもしれませんが。

テイカズラ 朝の散歩道で

 

「霊と真理をもって」礼拝する

 ヨハネ福音書4章でイエスはサマリアの女と会話をしています。その中でイエスはこう言いました。

ヨハネ 4:23~24
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。

 イエスの時代、会堂での礼拝、神殿での礼拝が行われていました。イエスは、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る、今がその時であると話されました。霊と真理をもって礼拝するとはどういうことなのでしょうか。「霊と真理をもって」。これはどういうことなのか。なかなか答えを出せませんでした。

 今日までこの言葉の意味を追求することをしませんでした。でも私は老いたので、自分なりの答えを出す時が来たと思いました。今、この言葉の理解を明らかにしておかなければ、あいまいのままに終わってしまうと思いました。私は長いこと神への礼拝を献げてきました。言い換えると、私は霊と真理をもって神を礼拝してきたということができるのではないか、そのようなわが身を振り返るとき、「霊を真理をもって」とはどういうことなのか、私なりの答えを出すことができるのではないかと思いました。

 「霊をもって」とは自分が、<神との交わりに生きる者である>ことを自覚して、と理解します。アダムが罪を犯して以来、人間の霊は死にました。しかしイエス・キリストを信じ、洗礼を受け、賜物としての聖霊を受けると人間の霊は覚醒し、人は神を信じて生きるようになります。神との交わりに生きることこそ、真に生きることであると知り、神との交わりに生きるようになります。

 「真理をもって」とは自分が、<真理なる神の言葉によって生きる者である>ことを自覚してと理解します。

 「霊と真理をもって」礼拝するとは、<神との交わりに生きる者>として、<真理なる神の言葉によって生きる者>として、礼拝すると理解します。

 神との交わりに生きるとは、神との関係に生きることを意味します。自分は神を畏れ敬い神に従う立場にあり、神は、父なる神として私を愛し、支え、導く立場にあります。自分の立場をわきまえ、神に対してふさわしい態度を取ることが大切となります。

 ですから、神を畏れる思い、そして神の前にへりくだる思いをもって礼拝をします。私たちを救い、御言葉をもって生かしてくださる神をたたえる思いをもって礼拝をします。真理なる神の言葉を聞くことを期待して、神の言葉に従う備えをもって礼拝を献げます。

ヒルザキツキミソウ 買物の帰り道