クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

讃美歌284番 主のとうときみことばは

 この讃美歌は、クリスマスに歌われる「神の御子は今宵しも」と同じメロディーです。歌いやすいです。この讃美歌の歌詞は、全面的に共感でき、素晴らしい讃美で、私の大好きな、特別に愛する讃美歌です。特に年をとってから、この讃美歌への共感が深まりました。4番の歌詞にこうあります。

老いの坂をのぼりゆき
かしらの雪つもるとも
かわらぬわが愛におり
やすけくあれわが民よ

 年をとり、頭の毛が白髪になっていく時、この「老いの坂をのぼりゆき」が自分に向けられた言葉だと心に刻まれます。そして「かわらぬわが愛におれ」との言葉に励まされます。わたしの愛にとどまれ、との神の語りかけを聞きます。神の愛の中にいるときだけ、平安があると教えられます。
 そしてあらためて思います。1番の歌詞にこうあります。

主のとうときみことばは
わがいのちのもといなり
たよるわれは安けしや
世にまたなきみことばよ

 若い日に信仰に導かれ、福音を宣べ伝える伝道者へと導かれました。説教することに自信のなさを覚える中、ある時、神のみ言葉こそ真理であると教えられました。この世の中で本当に確かなものは何か、それを教えられました。人間が生み出した思想は人々の共感を与えますが、それはいっときのものです。自分の命の根拠となり、信頼して裏切られることなく、これこそ自分が拠って立つ土台となるものとの確信を得て、説教を語ることができるようになりましたし、牧師としての歩みの中で悩み戸惑い落胆することもありましたが、聖書の言葉こそ、真理の言葉、支えの言葉と知りました。

2番
「ただ我のみ汝(な)が神ぞ
おそれずゆけ、ためらわで
・・・

 信仰に生きるとは、「わたしはあなたの神である」と語りかける神の声を聞き続けることであるとあらためて思います。年をとるとは、心身が衰え、死が近づき、悩み多き時を過ごすことでもあります。「わたしはあなたの神である」との言葉を聞き続けないと自分を支えることができないと思わされます。聞き続ければ良いのだと、励まされます。この讃美歌は、私を励ましてくれる特愛の讃美歌です。

散歩道で

 

 

祈っていて空しさを覚えるとき

 2022年2月ロシア軍がウクライナに侵攻し戦争が始まりました。軍事力をもって他国を侵略するのは国連憲章に反すると言われています。イスラエルがパレスチナに対して、アメリカがイランに対して、強国の権力者が武力をもって自分の思いを実現させたいと争いを起こしています。戦争、争いは多くの人の命を奪います。それはあってはならぬことです。それゆえ、戦争終結と平和の到来を私は祈ってきました。しかし現実に大きな変化はなく、戦争、争いが継続しているのを見るとき、祈ることに空しさを覚えることがあります。

 祈っても祈っても祈りがかなえられない時、私たちは時に祈ることの空しさを覚えるのではないでしょうか。家族が信仰に導かれるように祈っても、この国の伝道が盛んになるように祈っても、教会に新しい人が来て信仰に導かれるように祈っても、なかなか祈りがかなえられないと思えるとき、空しさを覚えるかもしれません。

イザヤ 55:8~9
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。

 神さまの思いは私たちの思いと異なり、私たちの思いを高く超えているとあります。ウクライナ戦争、アメリカとイランの戦争に対して、神さまがどのように考え、どのように導こうとされているのか、私には想像できません。ロシア人のキリスト者はロシアが戦争に勝利し、ウクライナの領土の一部がロシアのものとなるように祈っているかもしれませんし、ウクライナのキリスト者はロシアが撤退することを祈っているかもしれません。私は、武力で他国を侵略する行為は容認できません。神さまは、ロシア人の祈りを聞き、ウクライナの人の祈りを聞き、私の祈りを聞き、戦争という現実に対して何をなさろうとしているのか、私には分かりません。

 神さまは言うかも知れません。キリストは福音を宣べ伝えた。キリストは敵意という隔ての中垣を壊し、平和を生み出す道筋を開いた。人よ、教会よ、もっと強力に福音を宣べ伝えよ、平和を作り出す人を増やしなさい。それがあなたがたのなすべきことだ、と。神がこのように考えておられるかどうかは分かりません。戦争の終結、平和の実現を祈るのはよい、しかしあなたがたには、もっとなすべき事があるのではないか、と神は言われるかも知れません。

 こんなことを思いめぐらす中で、私はひとつの思いに至りました。キリスト者は祈るべきと思うことを忍耐強く祈り続ければよい。祈ることは神との交わりの行為であり、祈ることが大切なのであり、祈りがかなえられるか否かは、一番重要なことではないと。一番重要だと思うから祈ることの空しさを覚えるのだと。

朝の散歩で通った近隣の公園

 

わたしだ、恐れることはない

 朝、ヨハネ福音書6章16~21節を読みました。イエスがひとり山に退かれました。恐らく祈るためです。弟子たちは、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムを目指しました。途中で強い風が吹き、湖は荒れ始めました。イエスが湖の上を歩いて舟に近づくと、弟子たちは恐れました。湖の上を歩いて何かが近づいてくるのですから、不気味さを感じたと思います。するとイエスは言います。

「わたしだ。恐れることはない」。

 同じ出来事がマタイ福音書にもありますが、そこではイエスを見た弟子たちは、幽霊を見たと思い、恐れたとあります。マタイ福音書でもイエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と話しかけたとあります。

 この「わたしだ恐れることはない」との言葉が、心に響きました。

 老いの中にある私は、時々、将来のことを考えて思い煩います。

 そんな私に「わたしだ。恐れることはない」と主イエスに語りかけられたように感じました。私はいつもあなたと共にいる。あなたが私を求めないから、私がわからないのだ。このように言われているような気もしました。思い煩いや恐れに捕らわれているとき、「わたしだ。恐れることはない」と言っていただけることはありがたいと思います。

 私には主イエスを身近に感じたいという願いがあります。その願いに主が答えてくださったように思い感謝しました。

アザミ 散歩道

 

 

永遠の命~信じて受け取る

 永遠の命を得るために何をしたらよいでしょうかとイエスに尋ねる人がいました。イエスは神の戒めを守りなさいと答えました。それは神の戒めを守って永遠の命を手に入れることはできないことを示すためでした。人は、永遠の命を得るほどに神の戒めを守ることはできません。では永遠の命を得るにはどうしたらよいのでしょうか。「信じる」ことです。

ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネ 5:24
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

 永遠の命は信じることによって与えられます。そして人は永遠の命を与えられていると信じて、永遠の命に生きるのです。神の賜物は信じることによって与えられ、信仰者は与えられたと信じて神の賜物によって生きるのです。

 永遠の命とは、神との関わり、神との交わりに生きることです。イエスを信じ、人は信仰者として歩みます。神との関わり、神との交わりに歩みます。それが永遠の命に生きることです。永遠の命を人は所有することはできません。神との関わり、交わりに生きるように人は招かれており、イエスを信じ、神との関わり、神との交わりに生き、永遠の命に生き、永遠の命に生かされるのです。この神との関わりは、人が死んでもなくなりません。

 神の賜物は信じることによって与えられ、信仰者は賜物を与えられたと信じ、その賜物によって歩みます。永遠の命を得るのは信仰によってです。なぜでしょうか。永遠の命を与えられたら、それを与えられたと「信じて」生きるからです。

 パウロは、イエス・キリストを信じる者は義とされると教えています。

ローマ 3:22
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

 イエス・キリストを信じる人は、神の義を与えられます。つまり、義とされます。神はキリスト者を義、つまり正しい者と見てくださいます。この義も、神の賜物です。それゆえキリスト者は義とされたと信じて歩みます。義とされたことを喜び、義とされた者としてふさわしい歩みを目指します。 少なからぬキリスト者が下を向いて私は罪深い者ですと語ります。自分が義とされるなんて信じられませんと語っているかのようです。どんなキリスト者も罪深いのです。人の心には自分とを第一とする心、自分中心の心があるからです。人が生きている間、これはなくなりません。だから人は罪深いのです。だから人は、イエス・キリストを信じることによって義とされるのです。そんな罪深い者を神は義としてくださいます。

 キリスト者は、義とされたことを信じ、義とされた者としてふさわしい歩みをする努力をします。それが義という賜物を与えられた人の歩みです。賜物を与えられたと「信じて」生きる、だから賜物は信仰によって与えられます。私はこのように信じています。

ヒメジョオン 買い物に行く道で

 

永遠の命~それを得る方法

 永遠の命を獲得するにはどうしたらよいのでしょうか。マタイ福音書19章に金持ちの青年が登場します。彼はイエスに言います。

マタイ 19:16
さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。

 何をしたら得ることができるのかという問いは普通の問いです。違和感はありません。イエスは答えます。

19:17
「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」。

イエスは掟について具体的に語ります。

19:18~19
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」。

 青年がこれらの戒めは守っていますと言うとイエスはさらに言います。

19:21
 「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。

19:22
青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 青年は沢山の財産を持っていたので、それをすべてお金に換えて貧しい人に施すことはできませんでした。するとイエスは、弟子たちに言います。

19:23
「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい」。

 ルカ福音書にも似た話があります。そこでは律法の専門家が、イエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねます。するとイエスは「律法には何と書いてあるか」と尋ねます。すると律法の専門家はイエスに答えます。

ルカ 10:27
『「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。

 するとイエスは、「正しい答えだ、それを実行しなさい」と答えます。その後イエスは、サマリア人のたとえを語り、律法の専門家に、あなたもサマリア人のように行動しなさいと語りました。

 イエスもまた神の戒めを守れば永遠の命を得ることができると考えているのでしょうか。永遠の命は人間が自分の行動の結果として得るものではないことをイエスは知らせたかったのではないかと私は考えます。

 私は永遠の命をめぐるこれらの聖書を読み、人間の性(さが、生まれつきの性質)を見る思いがします。手に入れたい、獲得したい、と人はなぜ思うのでしょうか。大切なものを自分の手元に置いておけば、安心だからです。永遠の命が自分にあると確信できれば、安心して生きていけます。信仰者は「確信」というものを欲しがる存在なのかもしれません。私にはこの性があります。

ランタナ 散歩道



 

 

永遠の命~永遠とは?

 イエスは、私はぶどうの木、あなたがたはその枝であると語られました。

ヨハネ 15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

 キリスト者はイエスと結ばれています。またあの放蕩息子の物語があります。ある人の息子が父のもとを離れて遠くに出かけます。自分の人生を最高に生きることができると思ったのです。しかし行き詰まり、父のもとに戻り、父から大いなる歓迎を受けます。この物語は、人の歩みは神と離れては行き詰まるもの、人の歩みは神と共に歩むものであることを教えています。私たちキリスト者は神の子とされ、父なる神とは父と子の関係に生きることが許されています。

 そしてキリスト者とイエスのつながり、父なる神とキリスト者との父子のつながり、このつながりは、何かによって切れることはありません。たといキリスト者が死んだとしてもこのつながりは終わりません。このつながりは終わることがないのです。この結びつきは永遠に続くのです。次の聖句がそのことを物語っています。

ローマ 8:35
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

ローマ 8:38~39
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 

 キリスト者は神の愛、キリストの愛から引き離されることはないのです。神との関係、キリストとの関係は切れることはありません。私たちは地上の生涯を終えても、神の御手の中にあり、やがて復活をし、神の国に迎えられます。その時、「待ってたよ」と言ってくださる神、キリストに対して、私たちも「お会いしたかったです。お会いできてきてうれしいです」と言うことができます。

 神を愛するとは、神との関係を大切にし、神と共に、キリストと共に生きることです。地上の歩みにおいては、神が共にいてくださることを信じて歩みますが、御国に迎えられたときは、神を見るのです。神とお会いするのです。

 私たちはイエス・キリストを信じ、新しい命、永遠の命を与えられます。その結果として神と結ばれ、キリストと結ばれ、信仰の歩みをします。そしていつの日か、御国に迎えられ、神とお会いするのを、キリストとお会いするのを私たちは待ち望みます。

ヨハネ一 5:13
神の子の名を信じるあなたがたに、これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知ってほしいからです。(聖書協会共同訳)

買物からの帰り道

 

今なお働く神

 朝早く目が覚め、気持ちにゆとりがある時、ヨハネ福音書を少しずつ読んでいます。思ったこと、感じたことをノートに書いています。先日、心にスーッと入ってきた言葉がありました。

ヨハネ 5:17
わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。

 イエスは自分の働きについてこのように述べました。私たちの世界の現実がどのようなものであっても、「神は今もなお働いておられる」ことは信ずべきことと受けとめます。だから、「わたしも働く」とイエスは語ります。それでは自分はどうなのだろう。私も「わたしも働くのだ」と言うべきなのか、と立ち止まりました。神は今もなお働いておられることを思うとき、「わたしも働くのだ」と私も言いたいと思いました。歳をとり、高齢者となりました。私に何ができるのか、思いめぐらしました。

 一つ思うことは祈りです。

 世界中の教会を通して福音が宣べ伝えられること。人は生まれ、死んでいきます。福音はどのような時も宣べ伝えられなければなりません。

 第二は福音を信じた人たちが、平和を実現する人になることです。身近な家庭の平和から争いのない社会、世界が築かれるように。

 第三にそして人の命が尊ばれる社会となること。毎日のニュースで殺人事件の報道がなされています。私たちの社会が安心して生きていける社会であってほしいです。

日常の光景 奈良市内