イエス・キリスト
ローマ 14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
パウロは、「世を去ってキリストと共にいたい」との願いを表明しています。今、世を去ってもいいとさえ思っています。このパウロの願いにびっくりします。
古い人を捨て、新しい人を来なさいと衣替えが進められます。キリスト者の衣替えです。
キリスト者はキリストとに結ばれた存在です。真理が両者を結び合わせる絆です。
パウロはキリストを心の内に住まわせるように祈ります。キリストが自分の心の内に住むとはどういうことか。
復活の主が共にいてくださる。これは聖書の約束です。生くるにも死ぬにも主を思う揺るがぬ心を、神よ与えてください。
復活の主イエス・キリストとどのように関わって生きるのか。復活の主の御心を大切にすることが一つの答えです。信仰は神との交わりだからです。
「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」、「信仰の薄い者よ。なぜ、疑ったのか」とイエスは言われます。恐れや疑いがあっても惑わされず信じる歩みをしたい。
復活の主とキリスト者の関わりで一番大切なことは、ロマ書6章に書かれています。キリストの死と復活が自分の出来事となります。
私たちと共にいてくださる復活の主イエス・キリスト。この方とどのように関わりに生きるのか。復活の主は私のうちに生きておられます。
復活の主キリスト派わたしと共にいてくださいます。私の内におられるキリスト、それは神の言葉です。神の言葉によって生きる、それが復活の主と共に生きることです。
復活の主、共にいてくださる主とどのように関わって生きるのか、信仰者の課題です。キリスト者は主につながっていきます。母堂のきのたとえが小瀬得てくれます。
復活の主イエスは世の終わりまであなたがたと共にいると言われました。私たちはどのような信仰をもって復活の主に近づくのでしょうか。
イエスが私に語ります。「もう、罪を犯してはならない」。このイエスの言葉をどのように受けとめるのか。イエスは、私たちが罪を犯さないように助ける方と信じます。
イエスは真理。イエスにつながる人は豊かに実を結びます。真理が私たちを罪から自由にします。
罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。これは極端な言葉に見えます。でも人がどこに属しているのか、問いかけているように思います。
人が罪を犯すのはなぜか。神を畏れない心が罪を生み出します。
イエスは御自分を信じないユダヤ人たちに対して、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ」と告げました。
神の掟を破ることは罪ですが、掟を破るときには神をないがしろにする心があります。
イエスは語ります。「罪とはわたしを信じないこと」。大胆な発言です。
イエスは神の小羊と言われます。こひつじのしでおもいだすのは、エジプトで奴隷だったイスラエルの民が解放される物語です。
「罪を取り除く」ことの意味を考えるために、ヨハネの第一の手紙3章を読みます。
イエスは罪を取り除く方です。しかもイエスは言います。「もし子(イエス)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」。
ヨハネ 1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。罪を取り除く、どういう意味でしょうか。
人間にとって救いとは、神を愛する人間となり、自分を愛するように隣人を愛する人間となることです。
新約聖書を読むと、信仰生活にとって御子の存在は大きなものがあります。
目が遮られるとイエスのことが分からなくなり、目が開くと聖書のことが分かるようになります。目を開くのはイエスです。
主を賛美することを喜ぶ、それは私のうちに主イエスが生きておられるからではないかと考えるこの頃です。
この世を去ってキリストと共にいたいと熱望するパウロ。キリストが私のうちに生きておられるから私は願いを共有できる。
自分はなぜ、キリストに似た者となることを目指しているのか、目指してきたのか、それは私の内にイエスが生きておられるからだと理解するようになりました。