2024年3月3日、説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
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出エジプト記 19章1~6節
ローマ 6章1~11節
説教 キリストに結ばれて
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1.導入
→今日の説教のテーマは「キリストに結ばれて」です。
先ほど出エジプト記を読みました。
エジプトで奴隷であったイスラエルの民が、
神の力によって、奴隷状態から解放され、
自由に生きる地を目指して荒野を旅していました。
シナイ山の麓に来たとき、神はイスラエルの民と契約を結びます。
その時のことが出エジプト記19章に書かれています。
イスラエルの民が神の掟を守ることを神は求め
神はイスラエルの民を宝の民とすると約束しました。
神はイスラエルの民の神として、
イスラエルの民は神の民として生きていくことを約束しました。
イスラエルの民は、神の民として
神に結ばれて生きるものとなりました。
そしてキリスト者はキリストに結ばれて歩みます。
これが今日のテーマです。
→1節に「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」という問いがあります。
これは5章の最後の部分と関連があります。
ローマ 5:20
律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
律法というのは、神の掟の集合に対する呼び名です。
神の掟を集めた法律ですが、国家の定める法律と区別するために
日本語聖書では「律法」と訳されてきました。
→私たちが信仰生活に入り、
礼拝で説教を聞き、日々の生活で聖書を読む中で
私たちは神の戒め、神の教えを学びます。
私たちの生活に律法が入ってきたのです。
そうすると私たちは罪を知ります。
神の戒めに逆らうことが罪であり、
自分が罪を犯す者であることを知ります。
しかし、神さまは、イエス・キリストを信じる私たちを、
義と認めてくださいました。
私たちは神の前に正しい者とされました。
ローマ 5:16
一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
→たった一つの罪でも有罪とされるのに、
恵みは、多くの罪に対しても無罪を与えてくれます。
そこでひねくれた人は、
恵みを得るために罪を犯してもいいんじゃないか、と
考えたりします。
こういう人がいることを想定してパウロは、
「恵みが増すように罪の中にとどまるべきだろうか」と問います。
罪の中にとどまるとは、罪を犯す生活を続けることを意味します。
そしてこの問いに対して、パウロは「罪の中に生きることができない」と語ります。
罪の中にとどまることはできないと語ります。
なぜなら、私たちは罪に死んだからと言います。
罪に死んだ、どういうことでしょうか。
2.罪に対して死んだ
→7節には、「死んだ者は罪から解放されています」とあります。
罪の力は死んだ人には影響力を及ぼすことができないのです。
法律が死んだ人に適用されないのと同じです。
罪に対して死んだ、言い換えると
キリスト者は罪から解放されているから
罪の中にとどまることはできないし、
罪の中に生きることはできないというのです。
→キリストによる救いは、信じる者の罪が赦され、
信じる者が義と認められるだけではなく、
神が信じる者を罪の支配から救い出すことを含みます。
旧約聖書の出エジプト記に書かれている、
イスラエルの民のエジプト王の奴隷からの解放物語は、
キリストによる罪からの解放を指し示す出来事だと私は受けとめています。
→私たちは罪の奴隷であったというと驚かれるでしょうか。
パウロはこの手紙の7章で
ある深刻な悩みを抱えている人の告白を書いています。
その告白はこうです。
「私は神の教えを行おうと願っても、実行することができない。
神の教えとは反対のことをしてしまう。
私は何とみじめな人間であることか」。
→もし、皆さんにこのような経験があるとしたら、それは罪の支配下に置かれているから、罪の奴隷だから、神の教えを行うことができないのだ、とパウロは語ります。
時に人は、神の教えはむずかしいと言って、
神の教えを実行できない自分を正当化します。
あるいは自分は罪深いから、
神の教えを実行できないのだと自分を卑下します。
しかしパウロは、人間は罪の支配下にあり、罪の奴隷である、これが真相だと語ります。
→パウロが復活されたイエスから使徒としての使命を与えられた時、イエスはパウロにこう語りました。
使徒言行録 26:17~28
わたしは、あなたをこの民と異邦人のもとに遣わす。
それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、
→パウロの務めは、パウロの説教を聞いた人々の目を開いて、
闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせることであるというのです。
闇、あるいはサタンの支配とは、人々を罪の奴隷とし、
罪に支配されて罪を犯し続ける生活を続けさせることです。
人々を光に、神に立ち帰らせる、これが救いです。
同じことは他の箇所でも語られています。
コロサイ 1:13
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。
→救いとは闇の力からの救いです。
罪を犯す生活からの救いです。
御子の支配下に生きることができる、これが福音です。
さらにイエスの誕生についてはこう書かれています。
マタイ 4:16
暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。
→イエスは、私たちを暗闇から光の中へ導く救い主です。
光の中に導かれた者は、罪の中にとどまり、
罪の中に生きることはできません。
では私たちはいつ、罪に対して死んだのでしょうか。
いつ、罪の支配から抜け出て、罪の奴隷から解放されたのでしょうか。
3節
「それともあなたがたは知らないのですか」。
何を知っているべきなのでしょうか。
3~4節
キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。
→キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた時、
キリストと共に死に、私たちは罪に対して死んだのです。
3.キリストに結ばれる
→「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」とあります。
洗礼を受けるとは、キリストに結ばれることを意味しています。
洗礼を受け、キリストに結ばれた人のことを
キリスト者と言います。
→キリスト者は、キリストに結ばれています。
キリストに結ばれているので、
神の救いの恵みがキリスト者に届くのです。
ですから、自分がキリストに結ばれたキリスト者であると信じることはとても大切です。
もしくは自分がキリストに結ばれたキリスト者であると考えることが大切です。
→キリストに結ばれた私たちには
何が起きるのでしょうか。
私たちはキリストと共に死に、キリストが復活されたように、私たちは新しい命に生きる、ということです。
キリストの死と復活の出来事は、
私の死と復活の出来事でもあるというのです。
キリストに結ばれているとは、キリストと死と復活を共にするということです。
3節と4節を読みます。
ローマ 6:3~4
それともあなたがたは知らないのですか。
キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
→私たちはキリストと共に死にました。
キリストと共に罪に対して死にました。
私たちは暗闇から解放され、光の中へ、
御子の支配の中に生きるようにされました。
そして新しい命に生きる者とされました。
私たちの復活と言えます。
使徒パウロは、キリスト者はキリストに結ばれ、
新しく生まれた者であることを知って欲しいと語ります。
パウロがガラテヤの信徒への手紙でも似たことを書いています。
ガラテヤ書の2章です。
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
私はキリストと共に死にました。
するとキリストがわたしの内に生きているというのです。
さらに
コリント二 5:17
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
→キリストに結ばれた人は、新しく生まれ、新しく創造された者です。
4.信じること
→ここで一つ問題があります。
自分がキリストに結ばれていること、
罪に死んで罪から解放され、新しい命を得て、
新しい人になったことが実感できないことです。
→実感できなくても問題ありません。
これは実感することではなく、信じることだからです。
たとえば私たちは神を信じて信仰の歩みをしています。
私たちは神の存在を実感しているから
信仰生活をしているのでしょうか。
そうではないと思います。
私たちは神が存在していると信じて
信仰生活をしているのではないでしょうか。
信仰について語る聖句を紹介します。
ヘブル 11:1~2
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
→信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することだとあります。
望んでいる事柄とは、自分が個人的に希望することではありません。
聖書に書かれている神の言葉が指し示すことを信じること、確信することを意味します。
たとえば創世記に出てくるアブラハムは、神の言葉を信じ、
信仰の父と呼ばれる人です。
→彼は75歳の時に神の声を聞きました。
創世記 12:2
わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
→アブラハムは「あなたを大いなる国民にする」との神の約束を信じました。
実は彼には子供がいませんでした。
75歳の老人が子を授かり、しかも大いなる国民になるというのです。
しかも大いなる国民になるのは彼の死後です。
その実現を見ることはできません。
でも彼は神の言葉を信じました。
神の約束の実現を望みました。
信仰とは、望んでいる事柄を確信するとあります。
信じるとは望んでいる事柄が実現すると信じて歩むことです。
→洗礼を受けてキリストに結ばれていること、
キリストと共に死んだこと、キリストが復活したように、
私たちも新しい命に生きていることを
キリスト者である私たちは信じます。
私たちは信仰者、信仰に生きる者だからです。
信じる歩みをしていると、
ああ、自分は新しい命に生きているんだな、と
実感することがあります。
ああ、この罪から解放されたな、と
実感することがあります。
実感するから信じるのではなく、
信じるから実感がついてくるのです。
5.キリストに結ばれる恵み
→キリストに結ばれる恵みは何でしょうか。
4節を読みます。
ローマ 6:4
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
→キリストの死者からの復活、それは神の栄光を現しているとあります。
キリストの復活において、神は大いなる力を発揮されました。
人間は死者を復活させる力を持ちません。
しかし神にはそれができるのです。
それはどれほど大きな力なのでしょうか。
エフェソの信徒への手紙にこう書かれています。
エフェソ1:19~20
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、
→死者を復活させることがどれほど大きな力なのか、
私たちには想像できません。
これを悟らせてくださいとパウロは祈ります。
このエフェソの聖句は、キリストを復活させた神の大いなる力が信仰者に対して働くと告げます。
どのように神の力が信仰者に対して働くのでしょうか。
→キリスト者を罪の支配から解放し、
新しい命に生きる者とすることです。
この神の絶大な力がキリスト者に働く時、
キリスト者は新しい命を与えられ、
罪から解放されて神に対して生きる者とされます。
キリスト者が新しい命を与えられた者として、
生きていくこと、それは神の栄光を現すことです。
キリスト者を新しく生かすことにおいて、
神は栄光を現されるのです。
キリスト者はキリストに結ばれ、新しい命に生きるとき
神の栄光を現します。
神の大いなる力の片鱗を味わうことができます。
キリスト者はキリストに結ばれた者、これが福音です。
私たちは洗礼を受け、このキリスト者にされました。
祈ります。
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