主の晩餐の出来事は、マタイ、マルコ福音書にも書かれています。15節に書かれている主イエスの思いはルカ福音書だけに記録されています。
22:15
苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
主イエスは「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいとわたしは切に願っていた」と弟子たちに語りました。主の気持ちはどんなものだったのかと思います。
そもそも過越の食事とは何だったのでしょうか。その昔、イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しい生活をしていました。そこで彼らは神に救いを求めました。その求めに答えて神は色々な御業を行われましたが、最後に決定的な御業を行われます。そこで神はイスラエルの民に、家族ごとに小羊を屠って食べることを命じ、また小羊の血を家の鴨居に塗ることを命じました。
夜、神の使いがエジプト中をめぐり、家の鴨居に血が塗ってある家は通り過ぎましたが、血が塗っていない家では、長子が死ぬという災いをもたらしたのです。この災いに恐れを感じたエジプト王は、イスラエルを解放することにしました。
過越とは、神の災いが通り過ぎたことを意味します。同時にそれは、イスラエルの民の救いを指し示します。神はイスラエルの民にこの救いを記憶に刻むために過越の食事を毎年行うように命じたことが出エジプト記に書かれています。
イエスはなぜ、この過越の食事を弟子たちと共にしたいと切に願っていたと弟子たちに語ったのでしょうか。それは過越が救いを意味しているからだと思います。小羊が屠られて、イスラエルの救いが実現しました。主イエスは、自分の死が救いをもたらすものであることを弟子たちに知って欲しかったのだと思います。
主イエスは既に弟子たちに三回、苦しみを受け、殺されることを告げました。弟子たちは、その意味が分かりませんでした。それがどういうことか、怖くて主イエスに聞くことができませんでした。
この過越の食事をした翌日、主イエスは十字架で処刑され死にます。弟子たちは途方に暮れるはずです。主イエスの働きが挫折したように見えるからです。だから主イエスは、私の死は救いにつながる死であることを知って欲しいのだと弟子たちにメッセージを送ったのではないかと思います。
そして弟子たちだけでなく、私たちにも主の死がもたらす救いが何であるのか、きちんと知って欲しいと願っておられるのではないかと思いめぐらしました。主イエスは私たちの救い主です。私たちは果たして、主の死がもたらす救いが何であるのか、本当に知っているのでしょうか。知って欲しい、主の思いが伝わってくるような気がします。