信仰者
人間は霊と心(魂)と体からできていると聖書は教えます。アダムが罪を犯したおかげで人間の霊は死に、キリストを信じて洗礼を受けるとき、霊は再生します。
人間は霊と心と体からできています。人間の霊について考えます。霊が生きているか、死んでいるのか。それは何を意味しているのか。
人は洗礼を受け、キリストに結ばれます。そして新しい命に生きる者とされます。そして神の戒めを守ることができる人となります。
自分はなぜ、キリストに似た者となることを目指しているのか、目指してきたのか、それは私の内にイエスが生きておられるからだと理解するようになりました。
人格としての「私」と私の心を区別するとき、罪に打ち勝つ道が開かれると考えます。
キリスト者は古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着たいという思いを育てることが大切です。
私にはすべてのキリスト者が、自分は新しく生まれた者であるとの信仰に生きて欲しいという願いがあります。
塩は存在するだけで何かに働きかけるために行動するということがありません。キリスト者の存在が周囲に影響を与えていくわけです。
あらためて思います。学ぶことができるということはうれしい、と。聖書は内容が深く、自分の力では深みに到達できないことがあります。そんな時に学ぶことができるのは、本当にうれしいです。
キリスト者である自分がキリストに結ばれていることがどのようにして分かるのでしょうか。基本的には結ばれていると信じるだけです。
神の子とされたキリスト者は、神の御子に従う歩みをし、神の御子に近づく歩みをします。そして神の国に迎えられるとき、神の御子に似た者に変えられます。救いの完成です。
キリストに結ばれ、キリストと共に死に、キリストと共に新しい人として生きるようになることは、私たちの平凡な信仰生活の中でも、気がつかない形で静かに進行しているのではないでしょうか。
キリスト者としての成長を考えるとき、自分はぶどうの木の枝と考えるのもよいと思います。ヨハネ福音書15章にある主イエスのたとえです。
キリスト者に与えられた「いのち」に必要なものは霊の乳です。霊の乳とは神の言葉のことです。
「神はキリスト者に神の戒めを行う力を与え、キリスト者は神の戒めを守ります」。うれしい言葉ではないでしょうか。
神さまは目的を持って万物、人間を創造されました。その神さまのご意志を神学的には「永遠の聖定」といいます。
キリストと結ばれた者としてキリストを宣べ伝えています。彼の経験派、彼がキリストとひとつにされていることを示します。
私が明るく輝く木の姿に感動するのは、木々が信仰に生きる自分の姿を映しているからかもしれません。
使徒パウロは、キリスト者のことをキリストに結ばれた者と語ります。キリストに結ばれている、それがキリスト者の特徴あるいは本質だというのです。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。この聖句を自分のものにしたい。
今日はマルコ福音書6章でイエス様が故郷のナザレにお帰りになり、安息日に会堂で教えられた箇所を読み、思いめぐらしました。
ガラテヤ 6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。 強烈な聖句です。
クリスチャンは立派な信仰者であるべきか。立派な信仰者であるべきだという発想に疑問を投げてもよいと思います。