クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信仰者

聖書から人間を考える(2)人間の霊の死と再生

人間は霊と心(魂)と体からできていると聖書は教えます。アダムが罪を犯したおかげで人間の霊は死に、キリストを信じて洗礼を受けるとき、霊は再生します。

聖書から人間を考える(1)霊と心と体

人間は霊と心と体からできています。人間の霊について考えます。霊が生きているか、死んでいるのか。それは何を意味しているのか。

神の御子 なぜ、なに(6)新しく生まれる

人は洗礼を受け、キリストに結ばれます。そして新しい命に生きる者とされます。そして神の戒めを守ることができる人となります。

生きておられるイエス(4)キリストに似た者となる

自分はなぜ、キリストに似た者となることを目指しているのか、目指してきたのか、それは私の内にイエスが生きておられるからだと理解するようになりました。

信仰生活の出発点(5)「私」と私の心の区別

人格としての「私」と私の心を区別するとき、罪に打ち勝つ道が開かれると考えます。

クリスチャンは新生した人(3)

キリスト者は古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着たいという思いを育てることが大切です。

クリスチャンは新生した人(2)

私にはすべてのキリスト者が、自分は新しく生まれた者であるとの信仰に生きて欲しいという願いがあります。

あなたがたは地の塩です(続き)

塩は存在するだけで何かに働きかけるために行動するということがありません。キリスト者の存在が周囲に影響を与えていくわけです。

あなたがたは地の塩です

あらためて思います。学ぶことができるということはうれしい、と。聖書は内容が深く、自分の力では深みに到達できないことがあります。そんな時に学ぶことができるのは、本当にうれしいです。

救いを考える(8) 御言葉によって生きる

キリスト者である自分がキリストに結ばれていることがどのようにして分かるのでしょうか。基本的には結ばれていると信じるだけです。

人生航路の第三段階(15)キリスト者の目指すもの

神の子とされたキリスト者は、神の御子に従う歩みをし、神の御子に近づく歩みをします。そして神の国に迎えられるとき、神の御子に似た者に変えられます。救いの完成です。

人生航路の第二段階(60)私たちの死と復活

キリストに結ばれ、キリストと共に死に、キリストと共に新しい人として生きるようになることは、私たちの平凡な信仰生活の中でも、気がつかない形で静かに進行しているのではないでしょうか。

人生航路の第二段階(26)ぶどうの木の枝のイメージ

キリスト者としての成長を考えるとき、自分はぶどうの木の枝と考えるのもよいと思います。ヨハネ福音書15章にある主イエスのたとえです。

人生航路の第二段階(25)いのちのイメージ(続き)

キリスト者に与えられた「いのち」に必要なものは霊の乳です。霊の乳とは神の言葉のことです。

人生航路の第二段階(21)神の戒めを行う力

「神はキリスト者に神の戒めを行う力を与え、キリスト者は神の戒めを守ります」。うれしい言葉ではないでしょうか。

神の永遠の聖定(1)人間に対する神のご計画

神さまは目的を持って万物、人間を創造されました。その神さまのご意志を神学的には「永遠の聖定」といいます。

キリスト、わが内に生きたもう(3)キリストとひとつに生きるパウロ

キリストと結ばれた者としてキリストを宣べ伝えています。彼の経験派、彼がキリストとひとつにされていることを示します。

緑に輝く木々の姿

私が明るく輝く木の姿に感動するのは、木々が信仰に生きる自分の姿を映しているからかもしれません。

キリスト、わが内に生きたもう(2)キリストに結ばれた者

使徒パウロは、キリスト者のことをキリストに結ばれた者と語ります。キリストに結ばれている、それがキリスト者の特徴あるいは本質だというのです。

キリスト、わが内に生きたもう(1)

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。この聖句を自分のものにしたい。

人々の不信仰に驚くイエス

今日はマルコ福音書6章でイエス様が故郷のナザレにお帰りになり、安息日に会堂で教えられた箇所を読み、思いめぐらしました。

キリスト者は何を誇るか

ガラテヤ 6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。 強烈な聖句です。

クリスチャンは立派な信仰者であるべきか

クリスチャンは立派な信仰者であるべきか。立派な信仰者であるべきだという発想に疑問を投げてもよいと思います。