信仰者
キリスト者である自分がキリストに結ばれていることがどのようにして分かるのでしょうか。基本的には結ばれていると信じるだけです。
神の子とされたキリスト者は、神の御子に従う歩みをし、神の御子に近づく歩みをします。そして神の国に迎えられるとき、神の御子に似た者に変えられます。救いの完成です。
キリストに結ばれ、キリストと共に死に、キリストと共に新しい人として生きるようになることは、私たちの平凡な信仰生活の中でも、気がつかない形で静かに進行しているのではないでしょうか。
キリスト者としての成長を考えるとき、自分はぶどうの木の枝と考えるのもよいと思います。ヨハネ福音書15章にある主イエスのたとえです。
キリスト者に与えられた「いのち」に必要なものは霊の乳です。霊の乳とは神の言葉のことです。
「神はキリスト者に神の戒めを行う力を与え、キリスト者は神の戒めを守ります」。うれしい言葉ではないでしょうか。
神さまは目的を持って万物、人間を創造されました。その神さまのご意志を神学的には「永遠の聖定」といいます。
キリストと結ばれた者としてキリストを宣べ伝えています。彼の経験派、彼がキリストとひとつにされていることを示します。
私が明るく輝く木の姿に感動するのは、木々が信仰に生きる自分の姿を映しているからかもしれません。
使徒パウロは、キリスト者のことをキリストに結ばれた者と語ります。キリストに結ばれている、それがキリスト者の特徴あるいは本質だというのです。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。この聖句を自分のものにしたい。
今日はマルコ福音書6章でイエス様が故郷のナザレにお帰りになり、安息日に会堂で教えられた箇所を読み、思いめぐらしました。
ガラテヤ 6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。 強烈な聖句です。
クリスチャンは立派な信仰者であるべきか。立派な信仰者であるべきだという発想に疑問を投げてもよいと思います。