パウロはガラテヤの信徒への手紙でこう語ります。
2章20節
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
牧師として聖書を説き明かすためにも、これが具体的にどういうことを語っているのかを知ること、そして自分もパウロのように生きることは課題でした。そうでなければ説教できません。また一人の信仰者としても、このように告白できることは憧れでもありました。
そして私なりにこの聖句を理解し、私も「キリストがわたしの内に生きておられる」と語ることができるようになったと思っています。しかし今、この聖句のさらなる深みを追求してみたいと考えています。牧師の働きからの引退はあっても、信仰者の引退はありません。
「キリストがわたしの内に生きておられる」ことを考えるとき、もう一つパウロの言葉を思い起こします。
コリントの信徒への手紙二 5章17節
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
キリスト者として自分が新しく創造された者になることとキリストがわたしのうちに生きることは同一のことを言っているのではないかと理解します。さらにもう一つパウロの言葉を引用します。
ガラテヤ 3章26節
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
パウロによれば、キリスト者は新しく創造された者であり、神の子であり、キリストがその人の内に生きているとなります。
私は30才頃に洗礼を受けキリスト者になりました。教会の礼拝に行き聖書を読むようになり、導かれて洗礼を受けました。洗礼を受けた前後で変わったことが一つあります。私の人生における決定的な変化ということができます。洗礼を受ける前は聖書なしに生きていました。洗礼を受けた後は、聖書によって生きるようになりました。つまり聖書によって物事を考え、判断し生きるようになりました。聖書が私の生きる土台となったのです。聖書は単に信仰者の生き方を教える書物ではなく、信仰者のあり方そのものを明確に示す神の言葉と信じています。
自分の思い、自分の知恵、自分の体験で生きるのではなく、神の言葉である聖書によって生きるのです。ここには生き方の転換があります。生きているのは、もはや「わたし」ではありません。自分の思い、自分の知恵、自分の体験で生きる「わたし」はもういないのです。神の言葉が、わたしの内に生きているのです。
イエス様は「わたしは命のパンである」と言われました。私は神の言葉によって生きていますが、神の言葉は命のパンです。そして神の言葉が人となったのがイエス様です。「神の言葉=キリスト」なので私もパウロのように「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語ります。
今までこのように考えて信仰に歩んできました。しかし、ちょっと物足りなさを感じるのです。