私は洗礼を受けてまもなく神学校に行きました。社会人として働いていたので夜間の神学校です。4年通い、牧師となりました。神学校で学んだとはいえ、昼間は仕事をしていますので学んだと言ってもわずかです。牧師として出発した時、牧師として働くために必要なものは何もありませんでした。ただひたすら、説教に取り組みました。
ある時ベテル聖書研究会の大柴俊和牧師が礼拝に出席され、礼拝後、よく勉強なさっていますねと言われた時は本当にうれしかったです。そして30数年牧師として働き、引退して5年経ちました。
一人の信仰者として、また牧師として神さまの導きを得て成長することができたと思っています。聖書を読むことにおいて、御言葉に生きることにおいて、説教をすることにおいて、人を愛することにおいて、神さまが成長させてくださったと思っています。
ローマの信徒への手紙においてパウロが語るキリスト者像を先日ブログに書きました。もう一度書きます。
- キリスト者は律法に背いても罪をとがめられず、罪の責めを受けません。
- キリスト者は神を知り、神を喜び、神を誇ります。
- キリスト者は神の戒めを喜んで進んで行いたいと考えます。
- 神はキリスト者に神の戒めを行う力を与え、キリスト者は神の戒めを守ります。
言うまでもありませんがこのようなキリスト者に洗礼を受けてすぐになれるわけではありません。洗礼を受け、礼拝生活、信仰生活を続け、聖書を読み学び、み言葉に従う歩みの中で信仰者は成長していきます。上に掲げたことは一つの成長の目標です。さらなる成長もあります。多くのキリスト者が神さまの恵みによって成長することを願います。
エフェ 4:13
ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
キリストの満ちあふれる豊かさ。ここまでキリスト者は成長すると約束されています。