クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

説教 神の言葉に生かされる

 昨日、関西にある教会の礼拝説教の奉仕をしてきました。説教を紹介します。

 

聖書 テサロニケ一 2章13節

このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

 

→今日はA教会で説教奉仕をすることができ感謝です。

B先生と私は同じ神学校出身です。

ただ通った時期は違っていましたので

神学校でお会いすることはありませんでした。

でも以前からお互いに名前だけは知っていました。

神さまの不思議な導きと思っています。

私は牧師を引退し、奈良に住むようになりました。

神学校の支部が関西にあり、関西支部の同窓会が開かれ

そこで先生とお目にかかりました。

 

→B先生からメールで、

インターネットでA教会の

献堂十周年の礼拝の様子を見ることができますと

ご案内を受けました。

それを見ていたので、

今日の説教箇所としてテサロニケの信徒への手紙一から選びました。

このテサロニケ教会は若い教会です。

そしてこのA教会も若い教会なので、

このテサロニケの箇所を共に味わいたいと思いました。

この2章13節を味わうためには、

テサロニケ教会がどんな教会なのかを知る必要があると思います。

それは聖書に書かれていますので紹介します。

→テサロニケ教会はパウロが伝道してできた教会です。

ユダヤ人たちは安息日(土曜日)には会堂に集まり、礼拝をします。

そこでパウロはユダヤ人の会堂に行って、

イエス・キリストを宣べ伝えました。

もちろん、十字架につけられたイエス・キリストを語りました。

パウロは聖書に基づき、ナザレのイエスこそ自分たち(ユダヤ人)が待ち望んでいたメシアであると宣べ伝えました。

パウロにとって聖書とは旧約聖書のことです。

会堂に来ていたユダヤ人の中に信じる人たちがいましたし、

会堂の礼拝に参加していた神を崇めるギリシャ人たちの中にも信じる人がいました。

他方、十字架で死んだ者がどうして救い主なものかと

信じないユダヤ人たちもいました。

使徒言行録によればイエス・キリストを信じる人たちが現れたので、

信じないユダヤ人たちがねたみをおこし、

パウロたちを迫害したと書かれています。

このパウロの伝道によって誕生したのがテサロニケの教会です。

 

→そしてパウロは1章2節で

「祈りの度にあなたがたのことを思い起こして、

あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」と

書いています。

次の3節にはパウロの感謝の内容が書かれています。

3節。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、

また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って

忍耐していることを、

わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。

テサロニケ教会の人たちの信仰による働き、愛の労苦、

キリストに対する希望を持っての忍耐をパウロは感謝しています。

皆さんの中にも、A教会に仕え、信仰による働き、愛の労苦、希望を持っての忍耐に共感する方もおられると思います。

 

→さらに6~7節にはこう書かれています。

「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、

聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、

わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、

マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」。

 

→これは驚くべき事です。

テサロニケ教会の人たちは

キリストを宣べ伝えるパウロたちに倣う者となり、

主キリストに倣う者となったというのです。

私はパウロのことをとてもうらやましく思います。

キリストを宣べ伝える者からすれば、

理想的なことが現実になっているからです。

 

→私たち牧師、説教者が生涯をかけて目指していることが

実現しているのを目の当たりにします。

しかもパウロの伝道はそんなに長い期間ではありません。

短い期間で教会がそのように成長するのは驚きです。

私たちは、地道に日曜毎に説教し、

信仰者をキリストに倣う者に育てる努力を続けます。

だから余計にテサロニケ教会の現実に驚きます。

 

→パウロの伝道は、順調に行われたわけではありません。

パウロたちは迫害を受けました。

1章6節では「あなたがたはひどい苦しみの中で、

聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、

わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」とあるように

テサロニケの人たちも何らかの苦しみの中にあって信じるに至ったわけです。

困難があるから真剣に信じ、熱心に信仰に生きたのだと思います。

 

→パウロは喜びに満たされて

これ以上ない祝福の絶頂の中にいたわけではありません。

ユダヤ人たちからパウロは迫害されました。

テサロニケの人たちも試練に遭い

信仰を失うようなことがあってはならないと

パウロは心配もしています。

この手紙を書いたのも、テサロニケ教会の人たちを励ますためでした。

→そこでなぜ、このようなすばらしい教会が生まれたのかと考えます。

テサロニケの教会の人たちが特別な人たちであったと考える必要はないと思います。

私たちと同じような人たちだったと思います。

しかし、すばらしい教会が現れたことは確かです。

 

→1章5節にこう書かれています。

「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」。

 

→パウロがキリストを宣べ伝えたとき、信じないユダヤ人たちもいましたが、信じた人たちは確信を持って信じたのです。

皆さんがイエス・キリストを信じる決断をしたとき、どれほどの確信を持っていたのか、それは人それぞれだと思います。

パウロは、自分が福音を宣べ伝えて信じた人たちの様子を見て、

そこに神さまの大いなる導き、聖霊の働きがあったと知りました。

私は30歳の時、礼拝説教でマルタとマリアの説教を聞き、

「必要なことはただ一つだけである」との言葉を聞き、

心動かされ洗礼を受ける決心をしました。

この決断は、神さまの導き、聖霊の導きだったと思っています。

この決断は、私の心の中の密やかなものだったので

牧師先生は気づかなかったと思います。

しかしパウロはテサロニケの人たちの変化に気づいたのです。

 

→さらにテサロニケの人たちは、パウロに倣い、

キリストに倣う者となったとあります。

生まれながらの人間は自己中心的な性質を持っており、

聖書の教えを知ると、

時にそれに従いたくないという思いを抱くことがあります。

そしてこの教えはむずかしいよね、無理よね、とか言います。

こういう自分の頑なさを乗り越えて

私たちはキリストに倣う者になっていきます。

これもまた神さまの導き、聖霊の助けがあってなされることです。

 

→2章11節にこうあります。

「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした」。

パウロは父親が子どもに対するようにテサロニケの人たちに接し、

神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めました。

そしてテサロニケの人たちは、パウロの呼びかけに答えました。

彼らはパウロの勧めに従い、神さまの御心に従って歩みました。

→以上のテサロニケ教会の様子を知るとき、

私たちは、信仰に歩む上で大切な二つのことに気づきます。

第一に神さまの教えに従うには、神さまの導き、正確に言えば、聖霊の導きが必要だということです。

私たちのうちには、自己中心的な思いがあり、神さまの教えに反発します。

聖霊の導きにより、神さまの教えに従うことが可能となります。

第二に神さまの教えに従うには、私たちの意志も大切です。

聖霊なる神さまは、私たちを導いてくださいますが、

聖霊なる神さまは、私たちの意志に反して、

私たちを神さまに従わせることはなさいません。

私たちが神さまに従いたいと願い、助けを求めるとき、

聖霊なる神さまの助けを得ることができます。

聖霊の導きと私たちの意志、

この二つが信仰に生きるために大切であることを教えられます。

 

→このように神さまに従う信仰に生きているテサロニケ教会の人たちの姿を見て、パウロはこう語ります。

2章19~20節です。

「わたしたちの主イエスが来られるとき、

その御前でいったいあなたがた以外のだれが、

わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。

実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです」。

これは驚くべき言葉です。

牧師が教会員に向かって、あなたがたこそ、私の誉れ、喜びというのです。

こういうことを言える牧師は多くはないと思っています。

→そして今日の13節です。ここでもパウロの感謝が語られています。

「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」。

テサロニケ教会の人たちはパウロが語る言葉を聞いて、信じて、

信仰者になりましたし、信仰者として歩んでいます。

彼らはパウロが語る言葉を「人の言葉」としてではなく、

「神の言葉」として受け入れたというのです。

ここにテサロニケ教会がすばらしい教会になった理由があると思います。

パウロはそれを見抜いています。

 

→神の言葉って何でしょうか?

神さまが語る言葉ということです。

なぜ神さまは私たちに語るのでしょうか。

神さまが語る言葉は何を目指しているのでしょうか。

 

→神さまの言葉は人を救う言葉です。

だから私たちはこれに聞き従います。

神さまの言葉は人を祝福する言葉です。

だから私たちはこれを受け入れます。

 

→私はある時から、物事を判断する基準を聖書に置きました。

聖書は神の言葉です。

自分が物事を判断する土台を聖書におきました。

それゆえできるだけ聖書に親しみ、

神さまはどんなお方なのか、神さまが願う信仰者の生き方は何か、

そのことに心を向けてきました。

 

→神さまの言葉は、権威ある言葉です。

聖書を神の言葉と信じるとは、神の言葉の権威を認めることです。

主イエスが人々に説教したとき、

人々は驚いて「権威ある新しい教えだ」と言ったことがマルコ福音書に書かれています。

私たちが聖書を読んだとき、

そこにいきなり権威ある言葉を見出すとは限りません。

聖書の言葉に権威を見出すのは信仰によります。

あの二つのことがここでも大切となります。

第一に、聖霊の導きです。

第二に、神の言葉の権威を信じて歩みたいとの私たち願いです。

神の言葉の権威を信じると私たちの歩みは、

ぶれることのない確かな歩みとなっていきます。

 

→聖書に書かれている人間の最初の罪は何だったでしょうか。

アダムとエバが神さまから取って食べてはいけない

と言われた木の実を食べたことです。

エバが蛇の語ることに惑わされて、食べても大丈夫と考え、

食べたいと思って食べてしまいました。

そしてアダムにも木の実を渡し、

アダムも食べてしまいました。

彼らは神さまの言葉をないがしろにしたのです。

彼らは神さまの言葉の権威を軽んじたのです。

彼らは自分を神さまの言葉の上に置いたのです。

これが根本的な罪です。

 

→では神の言葉と受けとめるとき何が起きるのでしょうか。

13節で「信じているあなたがたの中に現に働いている」とあります。

神の言葉は、受け入れた人に働きかけるのです。

私たちは、神の言葉によって生かされるのです。

私たちが神の言葉と受けとめるとき、私たちはその神の言葉に従おうとします。

そして聖霊が私たちを助け、神の言葉に従わせてくださいます。

その結果、

私たちは、神の言葉によって生きる幸い、祝福を受け取ることができ

私たちは、神の言葉によって生きる幸い、祝福を証しする人にされていきます。

そして神の言葉が私たちの内に働き、私たちが神の言葉に生かされていることが分かるようになります。

そして信仰による働き、愛の労苦がなされるようになります。

そしてキリストの教会ができていきます。

 

→教会というのは、イエス・キリストを信じる人の集まりです。

同時に教会は、神の言葉によって生きようとする人の集まりです。

昔も今も、教会はキリストの福音を宣べ伝えています。

パウロがキリストを宣べ伝えテサロニケの教会ができました。

B先生が教会のないところから伝道を始められ、

A教会が今ここに存在しています。

神の言葉が生きて働いているからです。

私たちは神の言葉を信じ、神の言葉に生かされる信仰者です。

祈ります。

 

天の父よ、
あなたの言葉に生きる者なることを願います。
どうぞ導いてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。

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シュウメイギク 白毫寺境内