2020-03-01から1ヶ月間の記事一覧
牧師を隠退して募ってくる思い。福音が余すところなく宣べ伝えられているのだろうか、との思い。
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。心に留まった聖句です。
妻が孫たちにヨハネ黙示録の話をしています。黙示録の面白さを伝えたい!
活動の自粛、外出の自粛の中で、日曜の礼拝をどうするのか、教会の課題です。
聖書は死後の救いについても語ります。私たちは神の国に迎えられます。これが本当だと信じることのできる根拠は、イエス・キリストの復活にあると信じます。
神戸改革派神学校の校長吉田隆さんが書かれた『ウイルス禍についての神学的考察』という文章から一部を紹介します。
イエス様は祈りの中で「あなたの栄光を現しました」と祈られました。イエス様に倣い、私もこのように祈りたいと思いました。
イエス様は、信仰者の群れが主に会って一つとなるとき、世の人たちがイエスを信じるようになると教えられました。
私たちの思いは行いとなり、行いは習慣となり、習慣はやがて性格、人格となります。 み言葉を思い、み言葉を行うことを習慣化するとみ言葉による人格形成ができます。
私のアイデンティティーは正しい人間。「私は罪深い」は信仰者のアイデンティティーではありません。神さまの助けを得て罪を克服します。
「私は義人にして罪人である」。この言葉も私たちを罪の呪縛の中に導きます。問題なのは、私たちが福音に対して無知であることです。
人を罪意識の呪縛に追い込む者として、宗教改革者ルターの言葉があります。その言葉がひとり歩きをすると罪意識の呪縛をもたらします。
罪意識に悩む人がいます。心が痛みます。福音は喜ばしい知らせなのに。なぜ、と考えざるを得ません。
私たちの生きる拠点は教会です。福音を聞き、信仰者の愛の交わりに生き、この世へ遣わされます。
教会に属して生きる、そこにも神の用意された救いがあります。信仰は生活の拠り所以上のものです。
夫婦で聖書通読をしている信仰の兄弟からのメールを読み、模範にしたいと思いました。
救われて生きるとは、キリストと同じ姿に造りかえられる歩みをすることであり、この世の旅を通して、造りかえられていきます。
私はなぜ聖書を読み、礼拝をささげ、説教をするのか。私の心の動機は?
朝目覚めたときの思い。今日も「老いの一日」を過ごす。明日も「老いの一日」の繰り返し。
救いとは、目標を目指して生きることができる幸いのことです。神の国を目指してこの世の旅をする私たちの歩みの中に救いがあります。
聖書が語る救い、それは神に導かれる人生を生きること。
救いとは、神が用意された未来に生きること。未来を選ぶこと。
私たちが救いを必要とする理由は何?
イベント・集会自粛ムードの中での強化の礼拝で感じた緊張感。