救いとは、神が用意してくださる未来を生きること、そしてそれは神の国を目指す旅であると私は考えています。私にとって大切な、そして信仰者として生きることを考えるとき、非常に大切な聖句があります。
コリント二3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
フィリピ3:21
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
ヨハネ一3:2
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
どの聖句も、わたしたちが「主と同じ姿」「御子に似た者」に造りかえられることが語られています。「主」とは、イエス・キリストのことです。神の国に迎えられるのにふさわしい人とは誰でしょうか。それは罪も汚れもない人です。私たち人間は神の国に迎えられるのにはふさわしいものではありません。しかし私たちは最終的に「主と同じ姿」に変えられ、「御子に似た者」とされます。かくして神の国に迎えられます。
私たち信仰者にとって生きるとは、キリストに似た者となるという道筋を歩むことにあります。イエスと同じ姿に変えられるという道筋を歩む、それがキリスト者の生涯であり、神の国を目指す旅です。神さまは、イエス・キリストを救い主として遣わし、私たちを救ってくださいました。信仰に入るきっかけは人それぞれです。信仰に入るとは、主と同じ姿に変えられる歩みをする人生に招かれるということです。人生は、キリストに似た者となっていくという旅です。
神さまは、そもそもご自身に似せて人を造られたと創世記にあります。そして神は、真の人として御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。罪に堕落した人間は救われ、本来の人間の姿を取り戻すのです。それが救われて生きるということであり、それはキリストに似た者となる歩みをすることです。そこに人間らしい歩みがあります。
それゆえパウロは語ります。
コリント一11:1。
わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
パウロに倣うとはキリストに倣うことに他なりません。キリストに倣う、それはキリストと同じ姿に変えられることを意味します。
私たちはこの世を旅します。キリストを信じない人と同じような環境・状況の中を歩みます。信仰があるからと言って、困難が起きないわけではありません。約束の地を目指したイスラエルの民も、荒野を旅するとき、様々な困難に直面したのです。困難は神に信頼することを学ぶときでした。私たちは、キリストに倣う者として、この世に生きる時の様々な問題に対処し、また神さまから使命を与えられ、それぞれこの世の歩みをします。そして神の国を目指して歩んでいきます。
神の国を目指す旅、キリストに似た者に変えられていく歩みをするように、私たちは神さまに招かれています。それが救われて生きるということです。そして私たちは復活し、神の国に迎えられたとき、神の国にふさわしい者に最終的に変えられます。これが救いの完成です。