「A長老、こんばんわ」
「Bさん、こんばんわ」
「祈祷会が終わった後で申し訳ないんですが、やっぱりまた聞きたいことがあります。キリスト者が新しい人であるというのは分かりましたが、なぜ新しい人として生きていかなければならないのでしょうか」。
「聖書には洗礼を受けたキリスト者は新しく生まれた存在であると書かれていますが、何のために新しい人として生きるのか、それは明確には書かれていないように思います。私は二つ理由があると考えています」。
「二つですか。聞きたいです」
「第一の理由は、神の国の住民がどのような人かと関連しています」。
「神の国の住民ですか。どういうことですか」
「たとえでお話しします。もしBさんが神の国に行った時、そこにいるのが皆カエルだったらどうしますか」
「みんな蛙ですか。そんなバカな、と思います」
「だからたとえです。イエス様もカエル、父なる神さまもカエルの姿をしているとしたら、どう思いますか」
「間違った場所に来たと思います。泣き叫びたくなります」
「確かに困りますよね。自分は神の国の住民になれると思っていたのに、行った先はとんでもないところですもんね」
「A長老、私をからかっていませんか」
「いや、からかっていません。冗談を言っているわけでもありません。問題点をはっきりさせるためにたとえで語ったのです」
「問題点ですか。どういうことですか」
「神の国の住民は、私たちが想像できるような人ではないということです。ですから、今の私たちが神の国に行けば、きっと違和感を感じると思います。この違和感を強調するために、神の国に行ったらカエルがいたら、とお話ししたのです」
「そうなんですか。たとえであることは分かりました。では神の国にいる人ってどんな人たちなんですか」
「神の国にはイエス様がいらっしゃいますね。イエス様ってどんな風に見えると思いますか」。
「神の国のイエス様ですか。栄光に輝いておられるのでしょうか」
「私は見たことがないので何とも言えませんが、栄光に輝いておられるというのは間違いではないと思います」。
「よかった」
「そこでですよ。神の国にいる人たちが皆栄光に輝いているとしたらどうですか。あなたが神の国に行ったら、ここが自分の来るべき場所だと思えますか」。
「どうでしょう。わかりません」
「聖書を見てみましょうか。まずコリント二3:18」
コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
「Bさん、私たちは主と同じ姿に造り変えられていくとあります」
「はあ、主と同じ姿ですか」
「次はフィリピ3:21とヨハネ一3:3です」
フィリピ3:21
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
ヨハネ一 3:2
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。
「私たちは、皆イエス様に似た者、同じ姿、同じ形に変えられるとあります。それが具体的にどのようなものなのかは分かりません。しかしイエス様のような人であってこそ神の国にふさわしいわけです」
「な~るほど。キリスト者は死んだら、神の国へ行けるって単純に信じていましたが、そうではないんですか」。
「私はすべてのことを知っているわけではないので何とも言えないこともあります。聖書によれば、神の国にはイエス様に似た人たちがいることは確かです。あなたが神の国に行ったとき、そこにいるのがカエルだったら驚きますよね。では皆、イエス様に似た人たちだったらどうでしょうか。違和感を感じませんか」
「どうでしょうか。自分以外皆、イエス様のような人だったらどう思うかな。ここは自分のいる場所ではないと思うかもしれません。自分がいてはいけないような気がします」
「キリスト者が新しい人を目指すのは、言い換えるとイエス様のようになることを目指すことなんです。イエス様は十字架の死に至るまで神さまの御心に従順でした。だからキリスト者は神さまの心を大切にし、神さまの心を喜び、これに従って歩みます。つまりこれが新しい人として生きることなんです」
「なるほど」
「キリスト者は神の国を目指して歩むんですね。もう一つの理由は次回に」
「カエルのたとえ面白いですね」
「ええ、うちの牧師先生が時々説教で語りますよ」
「そうですか、ありがとうございました」。