昨日は奈良県内のG教会の礼拝で説教奉仕してきました。
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聞いていただけるとうれしいです。
以下は原稿です。
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旧約聖書 詩編119編105節
新約聖書 ローマの信徒への手紙 3章21~31節
説教 義とされた人の目標
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→久しぶりにG教会の礼拝に奉仕することができて感謝です。
今日はローマの信徒への手紙から、「義とされた人の目標」と題して、
説教をいたします。
信仰によって義とされた人が何を目指して生きるかという目標について、
お伝えしたいと思います。
☆
→パウロは1章17節で「福音には神の義が啓示されています」と書いています。
福音を知る出発点は神の義を知ることにあります。
この3章21節から神の義が語られます。
→21節。「イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに与えられる神の義」とあります。
24節。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです」。
神の義を与えられる、義とされる、どういうことでしょうか。
それは、<神さまはイエス・キリストを信じる人を正しい人と見なす>という意味です。
→まずイエス・キリストを信じるとありますが、何を信じるのでしょうか。
24節に「キリスト・イエスによる贖(あがな)いの業」とあります。
なぜ、この贖いの業が必要となったのでしょうか。
贖いとはそもそも何なのでしょうか。
→パウロはこの手紙の1~3章で人間は神の前に罪を犯し
神の怒りを招く存在になっていると書いています。
ローマ 1:18
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
→神さまは人間が犯す罪に対してお怒りになるというのです。
罪、これは人間が抱える最大の問題です。
罪は神の怒りを招き、滅びを招きます。
そして罪を犯さない人は一人もいません。
人は皆罪に対する神の怒りを受け、滅びることになります。
それゆえ人間は救いを必要とします。
この救いのためにキリスト・イエスによる贖いの業が必要だったのです。
→贖いの業というのはどのようなものなのでしょうか。
旧約聖書レビ記にはイスラエルの民が罪を犯した時、
神の赦しを得るために何をすべきかが書かれています。
神さまがお定めになったものです。
罪を犯した人は罪を赦してもらうために、
いけにえを神に献げます。
罪を贖うためです。
贖うという言葉には「神の怒りをなだめる」という意味があります。
いけにえを献げ、神の怒りをなだめ、神に罪を赦していただくのです。
罪の赦しを得るためにいけにえを献げ、
神の怒りをなだめることを贖うと言います。
→そしてイエス・キリストは罪を贖ういけにえとなり、
十字架で死んでくださいました。
イエス・キリストは人類すべての人が犯した罪を背負い、
その罪に対する神の怒りをなだめます。
十字架の上で神の怒りを受けて亡くなりました。
このゆえに、人間の犯す罪は赦されるのです。
イエス・キリストを信じるとは、
イエス・キリストを通して贖いの業が行われたと信じることです。
→それでは、神の義を与えられる、あるいは義とされるとはどういう意味でしょうか。
これは「私はイエス・キリストを信じる者を正しい者と見なす」と
神さまが宣言されたことを意味します。
これまでどんなに罪を犯してきたとしても
イエス・キリストを信じる人を正しい者と見なすと神さまが宣言されたのです。
誰かがあなたのことを、罪を犯している、とあなたを責めても、
神さまはあなたを正しい者と宣言してくださるのです。
あなたが今なお、自分は罪を犯していると思っても、
神さまはあなたを義である、正しい者であると宣言してくださいます。
これは絶対的な宣言です。
→5章6節には「いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」とあります。
裁判でいったん下された判決がくつがえされることはありません。
同じように、神。の宣言もくつがえることはありません。
イエス・キリストを信じ、義とされた人は、もう罪に定められることはありません。
ローマ8:1
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
→では義とされたキリスト者が罪を犯したらどうなるのでしょうか。
キリスト者を義とするという神の宣言はくつがえることはありません。
キリスト者は義とされるだけではなく、神の恵みによって、
キリスト者は罪に打ち勝つ力を与えられ、
神さまの教えを守ることができるようにされています。
このことをパウロは5~8章で語っています。
罪を犯したらどうなるか、などと考える必要はありません。
☆
→神さまは、イエス・キリストを信じる者を義とします。
神さまは義とした者をご自身との交わりに招かれます。
このことに私たちは注目したいと思います。
つまり罪が赦されればそれでよいのではありません。
私たちは罪赦され、神さまとの交わりに招かれているのです。
→ローマ書 5:11
わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
→「和解」とあります。
この「和解」は、キリスト者が神との交わりに生きる者とされたことを示しています。
☆
→さて、そこで見逃せないのが23節です。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」とあります。
人は罪を犯したためにある問題を抱えたのです。
罪は赦されても、この問題の解決が必要となります。
「神の栄光を受けられなくなった」という問題です。
罪を赦されても、神の栄光を受けられなくなった状態が続けば、
それはとても大きな問題となります。
この問題の解決がどうしても必要なのです。
「栄光」という言葉を使っている箇所を探します。
→5章1~2節
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。
→ここには、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしている」とあります。
神の栄光にあずかる希望がキリスト者の誇りだというのです。
→8章30節を読みます。
「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、
召し出した者たちを義とし、
義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」。
→ここでは、義とされた者たちに栄光を与えたと書かれています。
義とされたキリスト者は神さまから栄光を与えられているというのです。
どういうことでしょうか。
罪を犯して神の栄光を受けられなくなったのに、
今や神の栄光にあずかる希望を持ち、さらに神から栄光をあたえられたというのです。
→この栄光を考えるために創世記に目を向けます。
創世記によれば、人は神に似せて造られました。
このことには二つの意味があります。
第一に人間は神を映し出すという光栄ある役目を与えられています。
人間を見ると神が分かるというのです。
人間は神に似せて造られているからです。
主イエスが言われました。
「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)。
人間は本来、このように言うことができる存在なのです。
→神に似せて人間が造られたことの第二の意味は
人間が交わりに生きる存在だということです。
神に似せて人が造られた時、そこに男と女がいました。
この男と女は夫婦となります。
彼らは夫あるいは妻として、互いに関わりをもって生きることになります。
また人は神との関わり、神との交わりに生きることを示しています。
→考えても見てください。
神との交わりに生きるとは、神さまとお付き合いするということです。
神さまとのお付き合いです。
クリスチャンだけができるお付き合いです。
だれもができるお付き合いではありません。
神さまとお付き合いできる、これほど光栄なことはありません。
どんな金持ちでも、どんなに権力があっても、これ以上にない優秀な頭脳を持っても、だからといって神さまとお付き合いができるわけではありません。
神さまとお付き合いできる、これほど光栄なことはありません。
→神に似せて造られた人間には二つの光栄が与えられました。
- 神を映し出すという栄光
- 神との交わりに生きるという栄光
→最初に造られた男女、アダムトエバは、エデンの園で
何不自由なく生きていました。
神との交わりの中で人間らしく生き、祝福に満たされていました。
→神さまは彼らに、エデンの園の中央にある善悪を知る知識の木の実を食べてはいけない、食べたらきっと死ぬと警告を与えました。
彼らはその警告を無視し、食べてしまいました。
彼らは罪を犯したのです。
神さまが彼らに近づくと、彼らは隠れました。
神さまを避けました。
神さまとの交わりに背を向けたのです。
→彼らが罪を犯して失ったものがあります。
まず、神を映し出すという栄光を失いました。
現代の世界のあり様を見て、神がおられると信じる人はいないと思います。
この世界は人間の罪が満ちています。
第二に、神さまとの交わりという栄光を失いました。
この二つを回復する、それがイエス・キリストによる救いです。
→そして人は神さまを映し出す働きを回復します。
それは何よりも神さまとの交わりに生きなければ成し遂げることはできません。
神さまはイエス・キリストを信じる者を義とし、
神さまとの交わりの中に入れてくださいます。
→キリスト者の皆さんは、すでに神との交わりに生きておられます。
神さまに礼拝を献げています。
説教を通して神さまの御心を聞きます。
神さまに祈ります。
自分でも聖書を読み、神さまの言葉から、
励まし、慰めを与えられ、また導きを与えられます。
これらは信仰者が神さまとの交わりに生きている証拠です。
→さらに神さまとの交わりは深く、広がりがあり、豊かなものです。
さまざまな実を結びます。
→主イエスは神の掟を二つの戒めに要約しました。
神を愛すること、自分を愛するように隣人を愛することの二つです。
神さまとの交わりの中にある時、人は愛に生きることができます。
信仰者が愛に生きること、それは神の愛を映し出すものとなります。
神との交わりに生きる栄光、
神の存在を映し出す栄光、
この二つの栄光を私たちは回復していきます。
私たちは人生という現場で、この栄光を現すべく神さまに生かされています。
☆
→私たちには神さまとの交わりに生きた素晴らしい模範となる方がいます。
すなわち、イエス・キリストです。
主イエスは、朝早くまた夜更けに神に祈られました。
御自分を通して、神さまは救いの業を成し遂げられると神さまに信頼しました。
そして十字架の死に至るまで神さまの御心に従いました。
主イエスはいつも神さまとの交わりに歩みました。
主イエスは、私たちの模範です。
聖書をもう一つ読みます。
ローマ8:29
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。
→神さまの御心は、キリスト者がイエス・キリストに似た者となること、
主イエスのように神さまとの交わりに生きることです。
神さまに信頼することにおいて、神さまに祈ることにおいて、
神さまの御心に従うことにおいて、
主イエスに見倣い、神さまとの交わりに生きる、
それが義とされたキリスト者の目標です。
そして神さまとの交わりで欠かせないもの、それは御言葉です。
詩編
119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
祈ります。
祈り
天の父なる神さま、
あなたはイエス・キリストを信じる私たちに神の義を与え、
私たちを義としてくださいました。
あなたの御前に私たちは正しい者であると宣言してくださいました。
またあなたは私たちとあなたとの交わりに招いてくださいます。
あなたとお付き合いできるとは何と栄光に満ちたことでしょうか。
イエス・キリストもあなたとの交わりに生き、
私たちの模範となってくださいました。
私たちもまた、あなたとの交わりに生きることができるように助け導いてください。
あなたから与えられた栄光をいつも覚えることができますように
イエス・キリストの御名により祈ります。