今週10月1日、無牧の教会の礼拝説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
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聞いていただけるとうれしいです。
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聖書 詩編8編
ローマ 3:21~26
説教 神の救いが目指すもの
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→この箇所は私たちの信仰にとって大切な箇所です。
イエス・キリストを信じる者を神は、義なる者、つまり正しい者と見てくださることを教えています。
私たちは神の目に、義なる者、正しい者であると語りかけます。
キリスト教の基本的な教理です。
信仰義認の教理と呼ばれています。
→23節を読みます。
ローマ 3:23
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
→人は皆、罪を犯したために、神の栄光を受けられなくなっています、とあります。
今日は、「神の栄光を受けられなくなった」ことに注目したいと思います。
人が罪を犯した結果として、何が起きたのかを語っています。
人が罪を犯した結果、人は神の栄光を受けられなくなりました。
「受けられなくなった」とありますが、
元のギリシャ語は、「不足する」「足りなくなる」という言葉が使われています。
ですから神の栄光を現すことにおいて、不足が生じた、
という意味になります。
日本語らしく言えば、
神の栄光を現すことができなくなっている、と
訳していいのではないかと私は考えています。
→ということは、
救いには、神の栄光を現す者になっていくという面がある
と考えることができます。
すると神の救いには、
私たちを神の栄光を現す者にするという目標がある
と言ってよいと思います。
パウロによれば、神による救いには二つの面があります。
第一に、救いとは神との関係が回復されることを意味します。
かつて私たちは神を知らず、神の戒めに背くことを平気で行っていました。
罪を犯し、神の怒りを受けるべき者となっていました。
しかしイエス・キリストを信じ洗礼を受けた時、
神は私の神となってくださいました。
私は信仰によって神と結ばれました。
聖書に次のように書かれています。
ローマ 5:1
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、
わたしたちの主イエス・キリストによって
神との間に平和を得ており
→私たちは神の前に正しい者とされ、
神は私たちの神となってくださいました。
私たちは神との間に平和を得ることができました。
そして罪の赦しを受け、神の怒り、神の罰を恐れる必要がなくなりました。
救いとは、第一にはキリスト者と神との関係の回復を意味します。
→第二は、罪を犯したために人間が失ったものを回復することです。
人は罪を犯し、神の栄光を現すことができなくなりました。
私たちが救われるのなら、
神の栄光を現す者へと回復されてよいはずです。
ですから、神の栄光を現す者へと回復されることがないなら、
私たちの救いは中途半端なものになってしまいます。
それでは神の栄光を現すとは具体的にどういうことでしょうか。
☆
→先ほど旧約聖書詩編8編を読みました。
詩人は、人間が神に顧みられることの不思議を語っています。
5節
そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
→さらに詩人は、神が人間に栄光の冠をかぶらせ、
神の御手によって造られたものをすべて治めるようにさせたとあります。
神は、神の代理として人間にこの地を治める権威を与えたこと、
それは人間の栄光であることが書かれています。
そして、これほどに人間を神が顧みてくださるとは、
人間は何ものなのでしょうと詩人は語ります。
神は人間に栄光を与えてくださいました。
詩篇8編は、この地を治める権威、それが人間の栄光であると書かれています。
人間は地を治め、人間の栄光を現し、
この栄光を与えてくださった神の栄光を現します。
→次に創世記の1章に目を向けます。
ここからも人間が現す栄光について探ります
1:26~27
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
これは地を治める目的が人間にあることを示しています。
さらに神は御自分にかたどって人を創造されました。
神にかたどって創造されました。男と女とに創造された。
→神さまは、御自分にかたどり、御自分に似せて人間を造られました。
人は神に似ているのです。
神にかたどって人間が造られると、そこに男と女がいました。
男と女、アダムとエバは、やがて結婚し、夫婦となります。
彼らは夫婦として、互いに関わって共に生きる者となります。
夫婦として交わりをもって共に生きる者となります。
このことは、一つのことを示唆しています。
つまり神が人間を御自分にかたどって造られたことは、
神が人との関わりに生きること、
人は神と共に生き、
神との交わりに生きるものであることを意味しています。
→神が造られた生き物は沢山いますが、
神にかたどって造られたのは人間だけです。
明らかに神は人間に対して特別な思いを持っています。
人が神との関わりに生きること、神と共に生きることを
神が願われたことは、
神が人間を愛していることを意味しています。
神は人間と共に生きようとされました。
それは神が人間を愛するからです。
そこで神は人間も神を愛し、
神と共に生きることを願われました。
詩篇8編の詩人は、神が人間を顧みることの不思議さを語っています。
人は何ものなので、神は顧みられるのでしょうか。
神は人間を愛されているから、私はそう考えます。
→神は人間を愛する方です。
神にとって人間は大切な存在です。
そして神は、人間が神を愛することを願われます。
また人間が人間同士互いに愛し合うことも願われます。
愛のゆえに神は人間を造られました。
人間が神を愛し、隣人を愛するとき、
人は神が愛であることを世界に証しします。
人が愛の神を証しする時、人は神の栄光を現します。
そして神の栄光を現すところに人間の栄光があります。
人間の最高の栄光、光栄は、神を証しすることにあります。
→人間が神を愛し、互いに愛し合うとき、神から委託された
この地を治めることができるのではないかと考えます。
私たちが生きているこの時代、人々は神を愛さず、
人を殺してはいけないとの戒めを破り戦争をし、
互いに愛し合うことをせず、人を殺しています。
そしてこの地は、破壊されています。
人間は地を治める栄光を失っています。
→人は罪を犯すことにより、
愛なる神を証しすることができず、
神の栄光を現すことができない者となってしまいました。
そのことが23節で神の栄光を現すことができなくなった、
と書かれています。
人が罪を犯すとき、神の栄光を現すどころか、
人は神の御名を汚(けが)します。
創世記によれば、アダムとエバは神の戒めを破って
神が取って食べてはいけないとされた木の実を食べてしまいました。
彼らには二人の息子がいましたが、
兄のカインは弟を殺してしまいました。
人間とは神を愛するどころか、神の名を汚す者であることを創世記は語っています。
→ですからイエス・キリストによる救いは、
キリスト者が神を愛し、
隣人を愛することができるようにします。
もしそうでなければ、
信じる者を義とする神の救いは
中途半端なものになってしまいます。
☆
→人が義とされ、神との関係が回復するとき、
人は神の恵みによって、神を愛し、隣人を愛する者へと変えられていきます。
そのことをパウロは、キリスト者は律法を確立する、と語ります。
キリスト者は律法を守るというのです。
→21節を見ます。
ローマ 3:21
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
→律法とは関係なく神の義が示されましたとあります。
つまり人が義とされるのに、律法は関係ないというのです。
人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのであり、
律法をどれほど守ったのかは関係ないというのです。
そのことは28節でも語られています。
28節。
なぜなら、わたしたちは、
人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、
信仰によると考えるからです。
→そうすると、パウロは律法を守らなくていいと教えていると言い出す人が出てくるかもしれません。
そこでパウロは言います。
31節。
それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。
決してそうではない。
むしろ、律法を確立するのです。
→私たちは信仰によって義とされるからといって律法を無にすることはしないとパウロは言います。
つまり律法は必要ない、律法のことは考える必要がない、
とは言いません。
むしろ、私たちは律法を確立すると言います。
つまり私たちは律法をきちんと守る、とパウロは言うのです。
→ある時イエスは質問されました。
律法の中で最も大事な戒めは何でしょうかと。
マタイ22:37~39
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
→それゆえ、律法を守るとは、神を愛し、隣人を愛することを意味します。これが律法の基本的精神です。
信仰によって義とされた人は、神の恵みによって、
律法を守り、神を愛し、隣人を愛する者に変えられます。
愛の神を証しし、神の栄光を現す者へと回復するのです。
愛の神は、このことを実現せずにはおれないのです。
それが人の救いだからです。
そこで神の愛について、目を向けたいと思います。
→25節
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。
→神は信じる者を義とするために、キリストを立てました。
キリストというのは、もともと油注がれた者、
救い主という意味です。
ナザレに生まれたイエス、
地上で活動し、十字架で死んだイエスがキリストであると
私たちキリスト者は信じます。
→そしてこのイエスは神の子である、とキリスト者は信じます。
神は人間を救うために、ご自身の子、御子をこの世界に遣わしました。
そして御子は十字架で死ぬのです。
神は御子の死をもって人間を救おうとされました。
御子の死をも惜しまず神は人間を救おうとしました。
御子を惜しまないほどに神は人間を愛しておられるのです。
同時に御子もまた人間を愛していることがわかります。
→神は御子の同意なしに御子を世に送ることはしないと私は考えます。
御子は、父なる神の人間を救おうとする御心に同意しました。
そして人間となって人の世に生まれ、
最後には人間の救いのために死ぬことを受け入れたのです。
私たちは他者のために自分の命を犠牲にすることは簡単にはできません。
しかも十字架の死を遂げるような死に方をするとするなら、
なおさらできません。
しかし御子は神に従い、人となり、十字架の死を遂げ、
私たちを救ってくださいました。
ここに神の愛、御子の愛が示されます。
→私たちは神の愛の大きさ、神の愛の深さ、神の愛の強さを想像することはできません。
主イエスは、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と話されました。
これは人間が示す愛について言われたものです。
神の愛は、私たちの想像を超えたものです。
そしてその愛が私たちを救います。
つまり神の救いは、
私たちが神を証しし、神の栄光を現すように導きます。
私たちが、神を愛し、隣人を愛するという律法を守るように導きます。
神の計り知れない愛を信じるとき、
私たちが神を証しし、神の栄光を現すようになることを信じます。
私たちが、神を愛し、隣人を愛するという
律法を守るようになることを信じます。
→この救いの第一歩として、私たちは神の前に義なる者、正しい者とされました。
神の救いの目標は、
私たちが神を証しし、神の栄光を現すようになること、
私たちが、神を愛し、隣人を愛するという律法を守るようになることにあります。
パウロはこのローマの信徒への手紙の中で、それがいかに実現するのかを語っていきます。
私たちは罪を犯す者ですが、
神は私たちを愛し、義なる者と見てくださいます。
神の目に私は義なる者、正しい者である、
このことを信じるように私たちは招かれています。祈ります。