老いを生きる
訃報が届きました。この世にあって抱く死のイメージ、キリスト者として抱く死後の希望のイメージ。
老いた信仰者の神の国を信じる希望。神の子となって神の国に迎えられる希望。
イエスは憐れみ深い方です。「憐れんでください」と言ってイエスに近づく人を憐れみ、その願いを聞いてくださいます。
クリスチャンの敬老会に招かれて祝辞を述べることになりました。80歳を越える方たちに祝辞を述べるのです。何を語ったらいいのかと思案しました。
時々、何とも言えない重苦しい気持ちで目覚めるときがあります。私の心に死が影を落としているのです。この重苦しい気持ちは、私の心を聖書に向けさせます。
老いを生きるとは、御国を目指す旅路を生きることを意識することと考えています。一日分の歩みを意識するために、讃美歌と聖書通読を日課とします。
老いた信仰者にどんな歩みが充実した者となるのでしょうか。いつもよろこび、たえず感謝し、どんなことにも感謝することは、充実した歩みの現れです。
老いを生きることをどのように受けとめるのか。充実した日々を生きると考えることができます。でもキリスト者として私は、神の国を目指す旅路と老いを生きる日々を理解します。
充実した老いの生活とはどのようなものなのでしょうか。「する」事から「ある」の生活へ。
『もしも一年後、この世にいないとしたら』(清水研著 文響社)を読み終わりました。自分の寿命があと一年なら何をするのか。
『もしも一年後、この世にいないとしたら』(清水研著 文響舎社)を最近読みました。
一日を生きる、それは消化試合のようなものと感じる心があります。そのような思いで今朝は目覚めました。
歳をとり、残された時間が少なくなっていることを思います。それで詩編を通読し、昔の信仰者の気持ちに触れたいと思いました。今日は詩編の第一編を読みました。
老いを生きる中で、聖書の言葉や讃美歌が心に新鮮に響くことがあります。今回葬儀に参加し、讃美歌が心に響きました。
先日、先輩牧師の訃報を聞きました。ふと思いが与えられ、聖書を開きました。
この世を去ってキリストと共にいたいと熱望するパウロ。キリストが私のうちに生きておられるから私は願いを共有できる。
アリマタヤのヨセフはイエス様の遺体を引き取り墓に納めました。イエスの死を思って導かれた祈り。
今日は、妻の長兄の葬儀に名古屋まで行ってきました。明日は我が身か。
今年の元旦も能登半島地震。自分の歩む道が突然閉ざされる、そんな不安に追い込まれる不安があります。
神学校の同窓会から訃報のメールが届きます。訃報が届く中で人の死に慣れていき、自分の死を受け入れる心境になります。
私は今、死を越える希望を語る聖句の一覧表を作っています。これらの聖句を味わいたいからです。
老いの重荷は主イエスに預けて、マストとウォントの間を生きて充実感を得たいです。
置かれた場所で限られた人生の中で神に信頼し従順に歩みを全うする、それがキリスト者の生涯といえるのではないでしょうか。
人は何のために生きるのか、多くの人は考えます。神が何のために人を創造したのかを知れば、自ずと生きる意味が分かります。
私たちは限りある人生を歩みます。人間にとってそれは最善なのだと考えます。
信仰者としての自分は、死をどう受けとめるか、課題となります。キリスト者の希望は何か、です。あるいは限りある人生をどう受けとめるかです。
「最上のわざ」という詩にびっくりする言葉がありました。「老いの重荷は神の賜物」。賜物になってほしいと思いました。
老いは一つの弱さです。老いに対応することが阿むずかしい面があります。しかし弱さを誇る人がいます。。
新年最初の祈祷会で、新年の抱負を分かち合いました。年をとると特ぬ抱負もありません。
今日は久しぶりに馬見丘陵公園に行きました。林があり、池があり、花壇があります。