老いを生きる
今日は眼科の受診日。朝から気分は憂鬱です。左目にある症状が出ており、経過観察のために毎月受診しています。悪くなれば手術です。
新しい年を迎え、聖書から聞いた言葉は、神との間の平和。平和は、信仰者に対する神の約束です。
自分の人生を感謝を持って終えることができたらうれしいです。自分の正直になって、どんな風に感謝できるのか。人生を振り返っています。
死を重荷と考えたらどうなるのか。思いを追うている者はわたしのもとにきなさい。休ませてあげようとイエスは言われます。
昨日、葬儀に出席しました。そして今日、あらためて一日一日を妻と共に大切に生きようと思いました。
有名人の訃報が相継ぎました。自分の死に備えことの大切さを感じます。
『輝く日を仰ぐとき』という讃美歌があります。5番はキリストの再臨について歌われます。この歌詞は私を励ましてくれます。
信仰の父アブラハムは天の故郷を熱望していました。そこで私も。
老いを生きる今の私の小さな目標の紹介。
「万事が益となるように共に働く」との聖書の言葉を思いめぐらし、適用することにしました。
私は若いときこう考えました。死を越える希望を本当に信頼できるようになるためには、この世にあって神の約束に生きる歩みをしようと。
老いの中にある自分の生きる意味について考えてみました。
老いる中、衰えを受け入れる中で、死を受け入れる心が育っていくのかも知れないと思うこの頃です。
訃報が届きました。この世にあって抱く死のイメージ、キリスト者として抱く死後の希望のイメージ。
老いた信仰者の神の国を信じる希望。神の子となって神の国に迎えられる希望。
イエスは憐れみ深い方です。「憐れんでください」と言ってイエスに近づく人を憐れみ、その願いを聞いてくださいます。
クリスチャンの敬老会に招かれて祝辞を述べることになりました。80歳を越える方たちに祝辞を述べるのです。何を語ったらいいのかと思案しました。
時々、何とも言えない重苦しい気持ちで目覚めるときがあります。私の心に死が影を落としているのです。この重苦しい気持ちは、私の心を聖書に向けさせます。
老いを生きるとは、御国を目指す旅路を生きることを意識することと考えています。一日分の歩みを意識するために、讃美歌と聖書通読を日課とします。
老いた信仰者にどんな歩みが充実した者となるのでしょうか。いつもよろこび、たえず感謝し、どんなことにも感謝することは、充実した歩みの現れです。
老いを生きることをどのように受けとめるのか。充実した日々を生きると考えることができます。でもキリスト者として私は、神の国を目指す旅路と老いを生きる日々を理解します。
充実した老いの生活とはどのようなものなのでしょうか。「する」事から「ある」の生活へ。
『もしも一年後、この世にいないとしたら』(清水研著 文響社)を読み終わりました。自分の寿命があと一年なら何をするのか。
『もしも一年後、この世にいないとしたら』(清水研著 文響舎社)を最近読みました。
一日を生きる、それは消化試合のようなものと感じる心があります。そのような思いで今朝は目覚めました。
歳をとり、残された時間が少なくなっていることを思います。それで詩編を通読し、昔の信仰者の気持ちに触れたいと思いました。今日は詩編の第一編を読みました。
老いを生きる中で、聖書の言葉や讃美歌が心に新鮮に響くことがあります。今回葬儀に参加し、讃美歌が心に響きました。
先日、先輩牧師の訃報を聞きました。ふと思いが与えられ、聖書を開きました。
この世を去ってキリストと共にいたいと熱望するパウロ。キリストが私のうちに生きておられるから私は願いを共有できる。
アリマタヤのヨセフはイエス様の遺体を引き取り墓に納めました。イエスの死を思って導かれた祈り。