老いを生きる
2,3日前から、老いを生きるのって重荷を負うことではないか、と思うようになりました。
私はある時、この世の中で最も信頼できるものは何かと考えました。最も信頼できるものに出会い、それに基づいて考え生きるなら、自分の歩みは確かになると考えました。
老人とのしての私は明日死ぬことになっても当然だという思いを持ちながら、しかしまだその時ではないとの思いを抱いています。・・・
今日は奈良高畑教会で行われた葬儀に出席しました。大きな気づきを与えられました。
今週は詩編90編を読んでいます。以前から黙想したいと思っていた詩編です。
元旦礼拝で、「新しい年を迎えて」という讃美歌を歌いました。ふと思い、youtube でこの曲を聞きたいと思いました。すると。
讃美歌404番(山路越えて)には心惹かれるものがあります。「みちけわしく ゆくてとおし こころざすかたに いつか着くらん」。
月曜日のブログに「毎日単調な日々を過ごしていると、ふと自分は何のために生きているのだろうという思いが心をよぎります」と書きました。新たな思いが来ました。
先日眼科医に行き、眼瞼下垂の症状があることに気づき、紛れもない老化の現実を見る思いがしました。
老いて初めて経験することって色々あります。今回の経験は?
老いを生きる恵みとは何か、考えさせられるこの頃です。老いは一つの弱さです。しかし弱さがあるゆえに神との関わりが真剣になるのは恵みだと思います。
讃美歌11番 生くるも死ぬるも、ただ主を思う ゆるがぬこころを あたえたまえ
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。訃報を聞くことによって何が始まるのでしょうか。
老いて初めて気づくこと。老いを生きる者への励ましと慰めの歌詞。
先週は頭痛に悩みました。ストレスが原因らしく、ストレス発散のために、山里に出かけ、ウォオーキング。
年をとって説教をするときに気をつけなければならないのは、キチンを声を出すことです。喉の筋肉を使わなくなったせいか、普通にしゃべると声が出にくいというか、声がかすれるのです。
説教奉仕をしたG教会での出来事。聖なるものを見たという体験。
人間の生活は習慣から出てきているように思います。よい習慣を作ることはよい人生を生きることにつながります。
日曜午後、双子の孫と一緒の時間を過ごしました。
今朝食後、歯を磨いているときに鏡に映っている自分の顔を見ました。そこには紛れもなく老人の顔が写っていました。
アブラハムは自分が生きている間には実現しない神さまの約束を信じました。老いた私はこのアブラハムが好きです。
誤嚥性肺炎を防ぐために喉の筋肉を鍛える必要を考えていました。発声練習のために音程の高い歌を歌うことが推奨されていました。
牧師を引退して奈良に住み5年が過ぎました。神さまの導きの中を過ごすことができ感謝です。
夫婦二人の生活、一日の終わりに感謝できる日々はとても貴重。
昨日の新聞を見ていたら、本の広告がありました。その本の題名は『いつか死ぬ、それまで生きる』でした。この本のタイトルが、心に響きました。
小坂忠さんの訃報を聞いて心に去来した思いを書きました。
使徒パウロはこの世を去ってキリストと共にいることを熱望しています。パウロの心境に近づきたい。
老いを生きる恵みって何だろうと思いました。
老いの生活は達成を目指すのではなく、日々の生活を感謝をもって終えることに目標をおけばよいと知ります。
弟子たちは皆つまずくと主イエスが語ったとき、弟子たちは「そんなことはしない」と否定しました。