老いを生きる
この世を去ってキリストと共にいたいと熱望するパウロ。キリストが私のうちに生きておられるから私は願いを共有できる。
アリマタヤのヨセフはイエス様の遺体を引き取り墓に納めました。イエスの死を思って導かれた祈り。
今日は、妻の長兄の葬儀に名古屋まで行ってきました。明日は我が身か。
今年の元旦も能登半島地震。自分の歩む道が突然閉ざされる、そんな不安に追い込まれる不安があります。
神学校の同窓会から訃報のメールが届きます。訃報が届く中で人の死に慣れていき、自分の死を受け入れる心境になります。
私は今、死を越える希望を語る聖句の一覧表を作っています。これらの聖句を味わいたいからです。
老いの重荷は主イエスに預けて、マストとウォントの間を生きて充実感を得たいです。
置かれた場所で限られた人生の中で神に信頼し従順に歩みを全うする、それがキリスト者の生涯といえるのではないでしょうか。
人は何のために生きるのか、多くの人は考えます。神が何のために人を創造したのかを知れば、自ずと生きる意味が分かります。
私たちは限りある人生を歩みます。人間にとってそれは最善なのだと考えます。
信仰者としての自分は、死をどう受けとめるか、課題となります。キリスト者の希望は何か、です。あるいは限りある人生をどう受けとめるかです。
「最上のわざ」という詩にびっくりする言葉がありました。「老いの重荷は神の賜物」。賜物になってほしいと思いました。
老いは一つの弱さです。老いに対応することが阿むずかしい面があります。しかし弱さを誇る人がいます。。
新年最初の祈祷会で、新年の抱負を分かち合いました。年をとると特ぬ抱負もありません。
今日は久しぶりに馬見丘陵公園に行きました。林があり、池があり、花壇があります。
新しく便利な道具が出てきます。色々な場面で機械化、自動化がなされています。老いた者には利用することへの不安、ためらいが生まれます。
聖書が告げる死を越える希望は、信じて大丈夫なのか、と思う自分がいます。
「老いるとは新しい経験をすることです」との老教会員の言葉を折に触れて思い出します。「外なる人」の衰えを色々な形で経験します。
讃美歌405番 神ともにまして を歌って思い出した事柄。
鏡に映った自分との対話
年を重ね、ああ、これをするのはこれが最後だと思うことがあります。そんな最後のこと。
新たな習慣を身につけながら生きる老いの日々。
自分が死の床にある時、思いめぐらしたい聖書箇所が色々あります。その一つはマタイ福音書25章31節以下です。
聖書には、自分が死ぬことを楽しみにしている人が登場します。私も見倣いたいです。
信仰に生きるとは、「命の神に、わたしの魂は渇く」ことに共感することではないかと思います。御国に迎えられるとこの渇きが癒やされます。
信仰者として神の国のイメージを思い描いて、いつの日か神の国に迎えられるのを待ち望みたいと私は考えています。
伴侶を失って始まる生活は老いの試練と考えます。だれもが直面します。
日曜日の朝、訃報が届きました。訃報が届くたびに自分はどのような希望をもって生涯を閉じるのかと考えます。
先日の夜の祈祷会では、箴言12章を読んで、印象に残った聖句を分かち合いました。私は皆さんが話すのを聞くことを優先して、自分が話すのは控えました。 で、私が印象に残った箇所を紹介します。聖書は、聖書協会共同訳です。 11節自分の土地を耕す人はパン…
気づいてみればもう76歳。 でも不思議、毎日聖書を読まずにはおれない。・・・