クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

老いを生きる

老いの日々の日課

老いを生きるとは、御国を目指す旅路を生きることを意識することと考えています。一日分の歩みを意識するために、讃美歌と聖書通読を日課とします。

充実した老いの歩み

老いた信仰者にどんな歩みが充実した者となるのでしょうか。いつもよろこび、たえず感謝し、どんなことにも感謝することは、充実した歩みの現れです。

神の国を目指す旅

老いを生きることをどのように受けとめるのか。充実した日々を生きると考えることができます。でもキリスト者として私は、神の国を目指す旅路と老いを生きる日々を理解します。

充実した老いの日々とは

充実した老いの生活とはどのようなものなのでしょうか。「する」事から「ある」の生活へ。

寿命があと一年だったら(2)

『もしも一年後、この世にいないとしたら』(清水研著 文響社)を読み終わりました。自分の寿命があと一年なら何をするのか。

天に行く馳場(はせば)

一日を生きる、それは消化試合のようなものと感じる心があります。そのような思いで今朝は目覚めました。

詩編 第一篇 主の教えを喜びとし

歳をとり、残された時間が少なくなっていることを思います。それで詩編を通読し、昔の信仰者の気持ちに触れたいと思いました。今日は詩編の第一編を読みました。

葬儀に参列して

老いを生きる中で、聖書の言葉や讃美歌が心に新鮮に響くことがあります。今回葬儀に参加し、讃美歌が心に響きました。

訃報を聞いての思い

先日、先輩牧師の訃報を聞きました。ふと思いが与えられ、聖書を開きました。

生きておられるイエス(5)キリストと共にいる

この世を去ってキリストと共にいたいと熱望するパウロ。キリストが私のうちに生きておられるから私は願いを共有できる。

受難週黙想 ルカ 23:50~56 イエスに倣って死ぬ

アリマタヤのヨセフはイエス様の遺体を引き取り墓に納めました。イエスの死を思って導かれた祈り。

義兄の葬儀に参加して

今日は、妻の長兄の葬儀に名古屋まで行ってきました。明日は我が身か。

わが行くみち いついかに

今年の元旦も能登半島地震。自分の歩む道が突然閉ざされる、そんな不安に追い込まれる不安があります。

老いの影

神学校の同窓会から訃報のメールが届きます。訃報が届く中で人の死に慣れていき、自分の死を受け入れる心境になります。

イエスの問い

私は今、死を越える希望を語る聖句の一覧表を作っています。これらの聖句を味わいたいからです。

マストとウォントの間で

老いの重荷は主イエスに預けて、マストとウォントの間を生きて充実感を得たいです。

限りある人生(4)信頼と従順

置かれた場所で限られた人生の中で神に信頼し従順に歩みを全うする、それがキリスト者の生涯といえるのではないでしょうか。

限りある人生(3)神を知り、神を崇める

人は何のために生きるのか、多くの人は考えます。神が何のために人を創造したのかを知れば、自ずと生きる意味が分かります。

限りある人生(2)

私たちは限りある人生を歩みます。人間にとってそれは最善なのだと考えます。

限りある人生

信仰者としての自分は、死をどう受けとめるか、課題となります。キリスト者の希望は何か、です。あるいは限りある人生をどう受けとめるかです。

老いの重荷は神の賜物

「最上のわざ」という詩にびっくりする言葉がありました。「老いの重荷は神の賜物」。賜物になってほしいと思いました。

キリストの力が宿るように

老いは一つの弱さです。老いに対応することが阿むずかしい面があります。しかし弱さを誇る人がいます。。

新年の抱負

新年最初の祈祷会で、新年の抱負を分かち合いました。年をとると特ぬ抱負もありません。

老いを生きる

今日は久しぶりに馬見丘陵公園に行きました。林があり、池があり、花壇があります。

老いてもチャレンジ?

新しく便利な道具が出てきます。色々な場面で機械化、自動化がなされています。老いた者には利用することへの不安、ためらいが生まれます。

御言葉にゆだねる

聖書が告げる死を越える希望は、信じて大丈夫なのか、と思う自分がいます。

「外なる人」は衰えても

「老いるとは新しい経験をすることです」との老教会員の言葉を折に触れて思い出します。「外なる人」の衰えを色々な形で経験します。

讃美歌405番 神ともにいまして

讃美歌405番 神ともにまして を歌って思い出した事柄。

老いた自分の顔

鏡に映った自分との対話

これをするのはこれが最後

年を重ね、ああ、これをするのはこれが最後だと思うことがあります。そんな最後のこと。