私は老人で私の心はモヤモヤしています。どちらかというと憂鬱になる傾向があります。
第一に死が重くのしかかってきます。若い人にとって人生とは目の前に開かれた大海原のようなもので、どんな未来が待ち受けているのか、希望に胸を膨らませることができます。老人の場合は、人生は終盤戦で終わりを迎えるのを待っている状態です。私はキリスト者なので、永遠の命の希望を与えられています。でも死は未経験な事態であり、己の最後に向かっていかに歩むか、「答えの出ない事態に耐える力」の必要を思います。聖書が教える「忍耐」です。
気持ちが憂鬱になる第二の理由は、この世の現実です。政治的指導者は名目を掲げ戦争を行い多くの人命を奪っても平気を押し通しています。平和を祈り求めてもすぐには現実にならない状況があります。キリスト者としては、神のご支配があることを信じます。しかし信じることが困難に思えることも確かです。それにもかかわらず信じて祈っていく、これも「忍耐」です。
このような「忍耐」の必要を思うとき、自分の信仰の弱さを感じます。自分の力で忍耐をもって信じ祈り続けることができるかと言えば、疑問符がつきます。
でも自分の弱さを恥じる必要はないと自分に語ります。なぜなら自分の弱さを大いに誇ると語る人がいるからです。使徒パウロです。
コリント二 12:9
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
キリストの力がわたしの内に宿るとどうなるのか分かりませんが、祈り求めていきます。