クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

祈りにむなしさを覚えるとき

 私たちキリスト者は日々の生活の中で色々な祈りをすると思います。願いがなかなか聞き届けられないと、祈ることにむなしさを覚えることがあります。

 イスラエル軍のガザ侵攻により沢山のパレスチナ人の命が奪われている現実を見ます。人命が失われることがありませんようにと祈っても、イスラエルの首相の戦争を続ける意志が固く、ニュースで犠牲者の数が報道されたりして、最近は、祈ることにむなしさを覚えます。

 家族がクリスチャンになるように、そのためにまず礼拝に来るように何年も祈り続けている人もいると思います。家族がクリスチャンになるなんて無理ではないかと諦めの気持ちに誘われることがあります。

 祈りがむなしいと思えるとき、苦しいです。だからといって祈りをやめてよいとは思えません。そういえば何事にも時があると聖書に書かれていました。

コヘレト 3:1
何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

 何事にも時があるのなら、その時が来るのを信じて、忍耐強く祈り続けることが大切と教えられます。自分が祈っているのだから、早く祈りがかなってほしいと考えるのは、理解できます。自分の思い通りにならないことに不満を覚えたり、空しさを感じたりするのは、やはり、違っていると思わされます。忍耐強く祈りたいと思います。

 また祈りにむなしさを覚えるとしたら、自分は何のために祈っているのか、考える必要があるかもしれません。祈りがかなえられてうれしいという自分の喜びのために祈っているのかもしれません。さらに言えば、自分はキリスト者としてこのように祈っている、だから祈りが実現して欲しいと自分の信仰深さを自慢するような傾向が自分の中にあることを示しているのかもしれません。

 自分はすべきことをしているにすぎないと語る謙遜さを持ちたいと思いました。そして忍耐強く祈ることにします。

皇帝ダリア 散歩道