神の愛
自分が趣味としてきたことには共通点があります。なぜ、同じ共通点を持つことを趣味にしてきたのかと考えます。
神は、私たちを罪から救い、神との交わりに招いてくださいます。神は、私たちをどこへ導こうとされるのでしょうか。
聖書を読むと、神を信じて生きるとは神との交わりに生きることであると教えられます。
今回は3番目、罪で汚れた心を清めるという対策。洗礼を受けたときに、私たちは罪から清められました。
今回は2番目、罪を犯すよう働きかける力に対する対策です。神さまは私たちを愛し、しっかりした対策を備えてくださっています。
神の愛は、私たちを罪から救う愛です。神の愛ですから、罪から私たちを完璧に救います。では罪からの救いとはどのようなものでしょうか。
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
聖書の神は、信仰者を導く神です。愛をもって導かれる神です。
神は人間の罪を贖うために、御子を惜しまずにいけにえとしました。しかもその御子、人となった御子を死に追いやることを敢えてするほどの神の愛が示されました。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
キリスト派どのように私たちを愛してくださっているのか。
キリスト派私の内に住んで下さいます。御言葉として私の内に。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。かみのあいは、之よりもさらに大きい愛であると教えられます。
御子は人類の罪を背負い、神の裁きを受けました。つまり御子は神に見捨てられました。なぜ、このような歩みを御子はされたのでしょうか。答えはただ一つ。御子も人間を愛し、人間の救いを願ったからです。
御子は御父の提案を受け入れ、人となり地上の歩みをすることを受け入れます。神であるのに神の身分に固執せず、人となるのです。そこには御子の愛があります。
御子は御父によって世に遣わされることをどのように受けとめたのかと私は考えます。御父は御子に、「わたしはあなたを世に遣わしたいが、どう思うか」と御子の気持ちを聞いたと思います。
私たちの存在は、私たちを愛し、私たちの存在を願う神の愛のご意志によります。私たちは神のご意志によって、この世に誕生しました。
神の愛を知る手がかりは神が御子キリストを世に遣わし、御子を十字架の死に渡したことにあるというのです。神の愛はどのように示されているのでしょうか。
聖霊の働きが、神を愛する心をキリスト者のうちに創り出すのです。キリストによる救いの恵みです。
神を愛する心と全身全霊で神を愛せよとの教え
イエス様の「し死ぬばかりに悲しい」悲しみは、人間の罪を悲しむ神の悲しみ。神の悲しみはやがて神の喜びへ。
人は関係の中に生きる存在です。関係を言い表す言葉で互いに呼びます。
天地の造り主なる神は何を考えて世界を創造されたのでしょうか。思いめぐらしました。第六回目。御子を信じる者の再生が視野に入ります。
天地の造り主なる神は何を考えて世界を創造されたのでしょうか。思いめぐらしました。第五回目。十字架が視野に入ります
天地の造り主なる神は何を考えて世界を創造されたのでしょうか。思いめぐらしました。第二回目。
天地の造り主なる神は何を考えて世界を創造されたのでしょうか。思いめぐらしました。
旧約聖書には、神の掟として人が罪を犯した場合、いけにえを献げて神に赦しを求めることが命じられています。これは何を意味しているのでしょうか。
人は自分の犯した罪に対して自分で償いをすべきだし、身代わりなんておかしいと語る人もいます。でも聖書はなぜ、イエス・キリストが身代わりになったと語るのでしょうか。
神の愛に深さがあるならどれほど深いのでしょうか。その深さは測ることができないようです。