クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の愛を知る(13)信じる者を神の子とするほどの神の愛

 私たちは祈る時、神のことを「父」と呼びます。ということは、私たちは神の「子」であることを意味します。でも多くの人は、祈る時に、「父」と呼びかけるものだと教えられて、そう祈っていると思います。

 自分はイエス・キリストのゆえに「神の子」とされているという自覚を持つことは大切だと思っています。「神の子」はキリスト者のアイデンティティーです。言い方を変えると、神の前にキリスト者の身分は「神の子」なのです。神の前にキリスト者の立場は「神の子」なのです。

ヨハネ一 3:1
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。

 ヨハネの手紙第一では、わたしたちを神の子とするほどに神は私たちを愛しておられるとあります。イエス・キリストを信じるゆえに、私たちは神の子とされます。神の前に私たちの立場、身分は「神の子」なのです。神の前に、神の目に私たちは「罪人」ではありません。

 ルカ福音書にある放蕩息子のたとえ。主イエスが語られたたとえです。このたとえの中で、父から譲り受けた財産をすべて放蕩で使い果たして無一文となり、着の身着のままみじめな姿で家に帰ってきた息子を迎えた父は、彼にいちばん良い服を着せました。大勢の雇い人たちに、自分の息子が帰ってきたこと、そして彼を自分の息子として受け入れるように示しました。何よりも父は彼を愛をもって迎えました。財産を使い果たしたことを一言も責めませんでした。

 神の前に私たちは神の子です。神は私たちを愛し神の子としてくださいます。私たちを神の子として接してくださいます。

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」。

 考えなさい!

 自分が神の子とされることは実感できることではありません。すぐに納得できることでもありません。自分は神の子とよばれるほどに立派なキリスト者であると考えるような人はいないと思います。

 考えて、何か結論を出す必要はありません。神の子と呼ばれるほどに自分は神に愛されていると考えればよいのです。神の子として神に接すればいいのです。神の子として神に祈ればいいのです。

 神はなぜ、それほどまでに私たちを愛されるのでしょうか。私たちが愛される根拠は、私たちの内にはありません。私たちは神の子とされるほど愛される理由を持ちません。そのように愛される資格などないのに、神さまは愛してくださいます。イエス・キリストを信じる人は、恵みによって神の子とされています。

 もし、自分は罪深く、神の子と呼ばれるのに値しないなどと考えて、神が自分を神の子としてくださることを受け入れず、喜ばず、神の子として歩もうとしないなら、神は深く悲しまれると思います。

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