クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

永遠なる「私と主との結びつき」

ローマ 14:8
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

 この聖句は、私にとって大切な聖句です。でも「主のために死ぬ」というのがわかりにくいです。「主のために生きる」というのは理解できます。迫害下にあって、信仰を貫くために死ぬのは、「主のために死ぬ」ということができます。それは理解できます。しかし年をとって老いて生涯を終える場合、「主のために死ぬ」とは言えないと思います。この8節をどう理解したら良いのでしょうか。

 「主のために死ぬ」ことを理解したいと思い、『ローマ人への手紙講解4』(榊原康夫)で該当箇所を読みました。「主のために生きる」「主のために死ぬ」と訳されていますが、「ために」と訳されているギリシャ語の前置詞は、「ために」と訳される前置詞ではないと指摘していました。そして「イエス様のために生きよう、イエス様にありて死のう」とパウロは書いているのだとあり、なるほどと思いました。

 そこでネットで英語訳の聖書を検索してみました。
 New King James Version 訳は次のようになっていました。

14:8
If we live, we live to the Lord, and if we die, we die to the Lord; so then, whether we live or whether we die, we are the Lord’s.

(訳)
 もし私たちが生きるなら、主に対して生きる。そしてもし私たちが死ぬなら主に対して死ぬ。それゆえ、私たちが生きるにしろ死ぬにしろ、私たちは主のものである。

 「主に対して生きる」とは、主(キリスト)との関わりをもって生きる。「主に対して死ぬ」とは、主との関わりの中で死ぬ。つまりキリスト者は、主との関わりの中で生き、また死ぬとなります。それゆえキリスト者は主のものであるというのです。キリスト者は主のものであり、主との結びつきは、キリスト者の生死を越えているのです。

 言い換えると信仰者と主との関わり、結びつきは消えないのです。信仰者と主イエス・キリストとの結びつきは死を超えるのです。キリスト者はキリストに結ばれます。この結びつきは死を越えても失われないのです。このように8節を理解することができました。

 榊原康夫氏は、言うのです。

 「死」も、キリストとわたくしとの結びつきを断ちきることができない。決して、「死」という出来事が、主イエスを信じるわたくしの信仰生活の外で起こるとか、わたくしをキリストから引き離してしまう出来事として起こるのではない。あくまでも「主にある」一つの生活体験として死を迎えることができる、という非常に慰めに満ちた言葉であります。

 キリスト者はキリストのものであり、キリストとの結びつきは、死を越えても失われることがないというのです。うれしくなりました。ローマ14章8節を新たな思いで理解することができました。

ローマ 8:38~39
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

朝の散歩で