福音を考える
信仰者の心の中は罪との戦いの戦場。そこに福音が届けられます。
罪の領域と御子の支配する領域のどちらで生きるのか。人はどちらかの領域で生きています。
人はみな罪の下にあります。罪の支配下にあるというのです。聖書の人間観です。
神の御心は、私たちが聖なる者となることであると聖書に記されています。きちんと受けとめいたいと思います。
旧約聖書に描かれたイスラエルの民の歩みから学べることを紹介します。 1.神はご自身を救いの神として現される神。 2.神はイスラエルの民を愛し、交わりを求める神
神に逆らい神の民として生きることを拒むイスラエルの民。そんな彼らを見捨てることなく、立ち帰るように求める神
イスラエルの王国時代、信仰の継承が為されませんでした。それは信仰が神との交わりに生きるものであり、信仰が個人的なものであるという側面があったからです。
ダビデ王は、神の民イスラエルの王として神を畏れ敬う王でした。彼にも失敗がありましたが、神は信仰に生き続けた王でした。
イスラエルの民は、王を立てることを願い、神に信頼するより、人間の力に頼ろうとし、神の民というアイデンティティーを捨てようとします。
約束の地に入ったイスラエルの民の歩みから三つのことを覚えます。信仰の継承、偶像礼拝、聖書が伝える信仰の特徴。
神の大いなる御業を体験したイスラエルの民でしたが、彼らが抱く信仰は未熟な信仰でした。
神の民としてのイスラエルは神の民として成長していく。そのための神の配慮。
イスラエルの民はありありと、まざまざと神のみ業を見ました。それで「神の民」として生きていく決心をすることができました。
旧約聖書に登場するイスラエルの民、彼らは「神の民」というアイデンティティーに生きるように神に召された民でした。
クリスチャンのアイデンティティーはクリスチャンのさまざまな面を明らかにしています。
クリスチャンのアイデンティティーは「神のもの」です。神さまはわたしたちを御自分のものとして大切にしてくださいます。
クリスチャンのアイデンティティーが「聖なるもの」であるという時、クリスチャンが世の他の人々から区別されて、イエス・キリストを信じ、神との交わりに生きる人であることを意味します。
聖なるものとは、他のものと区別されて特別なものであるとの意味です。安息日を覚えてこれを聖別せよ。特別な日にするのです。
聖書は信仰者のアイデンティティとして「聖なる者」を語ります。クリスチャンは聖なる者なんです!
クリスチャンのアイデンティティーに向き合うことができるのは、それなりの期間信仰生活を送ってきた人ではないかと思います。
クリスチャンのアイデンティティー、それは福音と考えることができます。
クリスチャンは「新しい命」を与えられています。新しい命を与えられ、新しく生まれました。そして神の子と呼ばれます。
神の子、これもクリスチャンのアイデンティティーです。私たちは神に愛される神の子です。
洗礼を受けたキリスト者、クリスチャンの心には聖霊が住んで下さいます。聖霊を内に宿す人、これもクリスチャンのアイデンティティーです。
私は自分が罪深い者であるとの認識を持っていますが、私のアイデンティティーは、神の目に正しい者、です。
クリスチャンが罪を犯したら罪に定められるのでしょうか。罪を犯すクリスチャンはやはり罪深い存在なのでしょうか。
イエス・キリストを信じた人は、神の目に正しい人です。クリスチャンのアイデンティティーは、神の前に正しい人、です。
信仰者は新しく生まれた者です。信仰者のアイデンティティーです。
クリスチャンのアイデンティティーを知ることが再生の始まりまで宇。クリスチャンのアイデンティティーの最初は、罪から解放されている、です。
洗礼には神ご自身が働かれます。その結果、私たちはクリスチャンになります。名前だけクリスチャンになったのではありません。