福音を考える
今朝起きたら久しぶりの濃い霧。周りが見えません。この見えない風景を見ていると一つの聖句が思い出されました。
昔からずっと思っていることがあります。それは福音理解です。福音とは罪の赦しいう理解。
福音は神の力とはどういうことでしょうか。力ですから、何かに働きかけ、その何かに変化をもたらすと考えることができます。
月曜日朝の憂うつ。正体を見極めて対処しよう。
イエス・キリストを信じる者は義とされる。よく知られた教えです。イエス・キリストを信じるとはどういうことか、深く考えてみます。
信仰によって義とされなかったイスラエルの民は約束の地に入れませんでした。
信仰によって義とされた人物にアブラハムがいます。「信仰によって」とはどういうことでしょうか。
イエス・キリストによる救いとは、罪を犯すという不具合を持つ人間を修理することです。
当たり前は決して当たり前ではないと気づくことは幸いではないかと思います。私たちの当たり前は?
見つけなくても目につく花、だれもが見ることができる花があります。他方で、探そうと意識しないと見つけることができない花があります。
信仰によって義とされる。何度も聞いた言葉です。どう受けとめたらよいのでしょうか。
聖書が告げる福音をどう理解するか。私が信じる福音を書いてみました。
信仰者の心の中は罪との戦いの戦場。そこに福音が届けられます。
罪の領域と御子の支配する領域のどちらで生きるのか。人はどちらかの領域で生きています。
人はみな罪の下にあります。罪の支配下にあるというのです。聖書の人間観です。
神の御心は、私たちが聖なる者となることであると聖書に記されています。きちんと受けとめいたいと思います。
旧約聖書に描かれたイスラエルの民の歩みから学べることを紹介します。 1.神はご自身を救いの神として現される神。 2.神はイスラエルの民を愛し、交わりを求める神
神に逆らい神の民として生きることを拒むイスラエルの民。そんな彼らを見捨てることなく、立ち帰るように求める神
イスラエルの王国時代、信仰の継承が為されませんでした。それは信仰が神との交わりに生きるものであり、信仰が個人的なものであるという側面があったからです。
ダビデ王は、神の民イスラエルの王として神を畏れ敬う王でした。彼にも失敗がありましたが、神は信仰に生き続けた王でした。
イスラエルの民は、王を立てることを願い、神に信頼するより、人間の力に頼ろうとし、神の民というアイデンティティーを捨てようとします。
約束の地に入ったイスラエルの民の歩みから三つのことを覚えます。信仰の継承、偶像礼拝、聖書が伝える信仰の特徴。
神の大いなる御業を体験したイスラエルの民でしたが、彼らが抱く信仰は未熟な信仰でした。
神の民としてのイスラエルは神の民として成長していく。そのための神の配慮。
イスラエルの民はありありと、まざまざと神のみ業を見ました。それで「神の民」として生きていく決心をすることができました。
旧約聖書に登場するイスラエルの民、彼らは「神の民」というアイデンティティーに生きるように神に召された民でした。
クリスチャンのアイデンティティーはクリスチャンのさまざまな面を明らかにしています。
クリスチャンのアイデンティティーは「神のもの」です。神さまはわたしたちを御自分のものとして大切にしてくださいます。
クリスチャンのアイデンティティーが「聖なるもの」であるという時、クリスチャンが世の他の人々から区別されて、イエス・キリストを信じ、神との交わりに生きる人であることを意味します。
聖なるものとは、他のものと区別されて特別なものであるとの意味です。安息日を覚えてこれを聖別せよ。特別な日にするのです。