クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

月曜日の憂うつ

 月曜の朝、目が覚め布団の中にいるとき、憂うつな気持ちになることがあります。色々な理由があるのだと思います。しかし今日は「目を覚ましていなさい」との主イエスの言葉を聞く思いがしました。

 憂うつになる理由があります。今日感じたのは信仰に関わるものです。私は30才頃キリスト者になりました。数年後牧師としての働きを始めました。福音とは何か、いつも追求してきました。牧師を引退した今、自分なりに福音を理解できたと思っています。そこで私は危機感を抱くのです。

 福音とは罪の赦しのことであると考える人が多いように思います。このように考える人たちは、罪に打ち勝つことは無理だと考えているようなのです。このような信仰者は伝道する力がないと私は考えます。

「ねえ、教会に来ない。クリスチャンになると罪赦され、永遠の命を得るんだよ。うれしいでしょ。でもね、神さまの教えなかなか守ることができなくて、自分は罪深いなと思うの。でもね、罪を赦してもらえるんだよね」。

 クリスチャンがこう語るのを聞いて、信仰を得たいと思う人がどれほどいるのでしょうか。

 福音とは、罪の赦しだけではなく、罪からの解放を含むと私は考えています。私自身、自分を悩ませる罪から解放されてきました。しかし私はもう牧師としての働きから引退しました。会社を定年でやめたのなら、会社の将来を心配する必要はありません。しかし牧師の引退は違います。日本におけるキリスト教伝道は自分に関係ないとは言えません。実際に教会の礼拝に出席し、その教会の伝道のために祈ります。

 今の私にとって、罪からの解放の福音が礼拝で説教され、罪からの解放の喜びを分かち合う教会の形成ははるか遠い将来のように思えてなりません。自分の力では、このような状況を変えることができない無力さを感じます。この無力さを感じながら生きていかなければならない、それが憂うつの一つの原因だと今日分かりました。伝道が盛んになって欲しいという切なる願いとそれが困難に思える教会の現実の狭間の中で生きる憂うつ。死ぬまでこの憂うつの中を生きなければならないと思う憂うつ。

 でも今日は「目を覚ましていなさい」との主イエスのお言葉を聞くべきだと思いました。きちんと考えなさいと言われたような気がします。

 牧師というのは、与えられた場所で与えられた期間、福音を宣べ伝えるのがその務めであると私は考えてきました。全世界に自分一人で福音を宣べ伝えることはできません。与えられた場所と期間、務めを果たすよう神さまから委託を受けたのです。そして私は引退するまで、その務めを果たすことができたことを喜び、感謝します。

 今後のことは、今務めを果たしている人たちと今後神さまから務めを与えられる人たちにゆだねます。自分の役割は応援することであり、応援をすればいい。このように考え方を整理しました。私が悲観するということは彼らに申し訳ないことです。彼らはすばらしい将来を切り拓くかも知れません。

 だから私は応援だけすればよい、それ以上でもなく、それ以下でもない。応援をすることが私の務め、使命と考えることにしました。

 来週の月曜の朝、どうなるでしょうか。バイバイ、ブルーマンデイ。

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久しぶりのカタクリ 2022.3.30