クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

罪からの解放・自由(6)

 罪からの解放・自由は、具体的にどのようにして起きるのでしょうか。どうすれば経験できるのでしょうか。聖書は語っていないように思います。言い換えると、それが個人の身に起きる時、それはそれぞれの仕方で起きるということなのだと思います。

 劣等感とか、人をうらやむ思い、自分を否定的に考えるような思考、それは罪です。神が愛してくださる自分をそのように考えるのは罪です。私は信仰者のアイデンティティーを信じることによって、つまり私は神に愛されている者であり、私という人間をご存じの上で神さまは、牧師に召してくださったことを考え、上に述べた思いから解放されたことを思い起こします。

 私の妻は、赦せないという思いと赦しなさいという神さまの命令のはざまで強い葛藤で悩んでいたことがあります。ついにある時、感情では赦せないまま、「神さま、赦します」と祈りました。「赦します」と口に出した途端、思いがけず、赦せない思いから解放されたというのです。罪からの解放は人によって現れ方が違うことを思います。

 罪からの解放、それは、私たちが罪を犯さない者になるということではありません。罪からの解放、それは具体的な罪、つまり自分を悩ます具体的な罪からの解放・自由と私は考えています。この罪を犯したくないと思っていても犯してしまう、罪の力に負けてしまう、そのような罪からの解放です。解放は具体的な出来事となります。

 信仰者の歩みにおいて、一つの罪から解放されたとしても別の罪にまだ支配されているということもあります。従って一つ一つの罪から解放されて、自由にされていくという歩みを信仰者はすることになります。聖書を読むことによって神さまの御心を知り、新たに自分の罪を教えられることもあります。

 聖書が福音として罪からの解放を語っていることを知らず、自分が罪に支配され、「私は罪深い者です」と折あるごとに語っているとすれば、それは本当に残念なことです。昔私が牧会していた教会の礼拝において、隠退してから説教奉仕に行った教会の礼拝において、司式をする長老・役員の人たちの祈りを聞くたびに、罪から解放されることを知らない人の祈りだと思ったことが何度もあります。

 これは説教者がきちんと福音を語っていないことに原因があると私は考えています。<福音とは罪の赦しのこと>であると福音を狭く考える説教者は少なくないのです。

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紫式部の実 散歩道にて