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隠退牧師 holala によるブログ

人を赦すということ

 聖書は「人を赦しなさい」と教えています。いったい、いつ、どのタイミングで相手を「赦すのでしょうか」。ある人からひどいことをされて赦せないと思ったとします。聖書が「赦しなさいと教えている」と思ったときに赦すのでしょうか。

 マタイ18章に仲間を赦さない家来のたとえがあります。ある家来が王から多額の負債を免除されました。次にその家来がお金を貸している人が、返済を待って欲しいと言いました。その額はわずかなものです。しかしその家来は待つことはできないと語り、お金を借りた人を牢に閉じ込めたと書かれています。そこで王は、その家来を牢に入れたというのです。

 このたとえから分かることは、赦すのは相手が赦してほしいと言ってきたときです。相手が赦して欲しいと言ってこないのに相手を赦すことをイエス様は教えてはいないと考えます。

 神さまの赦しについて考えます。私たちはイエス・キリストのあがないを信じ、イエス・キリストを信じたとき、過去に犯したすべての罪が赦されることを信じます。ではその後、私たちが罪を犯したとき、その罪の赦しはどうなるのでしょうか。私たちが神さまに赦しを求めるのを忘れている時、神さまは私たちの罪を赦されるのでしょうか。私たちが罪を悔い改めて赦してくださいと赦しを求めるときに神さまは赦してくださるのではないでしょうか。

 私たちが赦すべき相手の人が赦しを求めていないのに、その人を赦す必要はありません。ただその人が赦しを求めたときにはすぐに赦すことが大切です。ということはいつでも赦せる準備ができているということです。赦すのは相手が赦しを求めてきたときです。「赦せない」という思いを抱き続けることは好ましくありません。それは赦せないという思いに支配されることになります。イエス様は私たちをさまざまな支配、束縛から自由にしてくださる方です。

 イエス様の「赦しなさい」という教えは、いつでも赦せる思いを抱き、相手が赦しを求めたときに「赦しなさい」との意味だと考えます。相手が赦しを求めていないのに赦す必要はないと考えます。それは変です。赦すのは相手が赦しを求めたときです。私たちはいつでも赦せる準備をしておきます。そして赦せない思いに縛られないことです。

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馬見丘陵公園 2022.2.12