クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(70)赦しがたい人を赦す

 洗礼を受け、キリスト者になり礼拝生活を始めます。説教を聞き、聖書を読み、キリスト者としてどのように生きるべきかを学び、それに従おうとします。

 「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェ  4:32 )。

 Aさんはこれを読んではっとしました。赦せない人がいたからです。その人は電話でひどい悪口を言い、Aさんを中傷しました。Aさんの息子がたまたま電話に出た時、彼にもひどいことを言いました。Aさんがこの聖書を読んだ時に、赦しなさいと神さまから言われた気がして戸惑いました。「あんなにひどい中傷を受けて赦せるはずがないでしょ」と神さまに訴えれば、「そうだね」と神さまが言ってくれると思いました。でも聖書を通して神さまが赦しなさいと言っているように聞こえて、困りました。いや段々心が苦しくなりました。「神さま、赦せと言うけど、私の心はひどく傷ついたんです。神さまご存じですよね。それでも赦せというのですか」。

 Aさんは<赦さなければいけない。でも赦せない>という思いが心の中でぐるぐる回り、辛い日々が続き、どうしようもなくなり、「神さま、赦します」と祈りました。するとどうしたことでしょう、思いがけなく、心はさわやかなのです。赦せない思いが消え、心が軽くなりました。

 赦せないとの思いに支配されていた自分でした。赦したいと願っても、心は赦しません、赦せませんと言っていました。赦しなさいとの神さまの命令に従いたいと願っても、心は赦せるはずがないでしょ、と神さまの教えと反対の状態でした。

 苦しさのあまり「神さま、赦します」と祈りました。「赦しなさい」との神さまの命令に従ったのです。思いがけなく、心はさわやかなのです。Aさんは神さまの祝福を与えられたとうれしくなりました。

 クリスチャンでも、「赦しなさい」との神さまの戒めはむずかしいよね、無理よね、と赦さないことの弁解をする人もいると思います。この場合、不信仰の立場に身を置くことになりますし、赦しなさいという神さまの戒めに反抗する罪の中に身を置くことになります。

 Aさんが最後まで苦しんだことは、「赦しなさい」という神さまの命令に従おうとしたからであり、これはAさんがキリストと共に新しく生きる人になったことを意味していると考えます。

 Aさんは苦しさのあまり、「赦します」との祈りに追い込まれたと言うことができます。他に方法がなかったからです。

 Aさんとは違い、苦しさに追い込まれることはなく、赦せない思いはありますが、赦せる人になりたいと本気で願い、「神さま、私はあの人を赦します」と冷静に祈ることもあると思います。

 赦せない自分はキリストと共に死んで、キリストと共に生きる人となり、赦すことができるキリスト者になったのです。だから「神さま、私はあの人を赦します」と祈り、赦せない罪からの解放を得ることができると信じます。

讃美歌177番2節
かみのいきよ われに満ちて
みこころを常に なさせたまえ

チャノキ お茶の葉が生える木