クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(35)罪の悔い改め

 キリスト者は自分が罪を犯したと気づいたとき、あるいは気づかされたとき、どうするでしょうか。どんな思いになるのでしょうか。

 ある人は言い訳をしたり弁解をするかもしれません。この場合は、自分は罪を犯したとその責任を認めようとはしていません。

 ある人は言い訳も弁解もせず、自分が罪を犯したことを認めます。神さまに赦しを求め、さらに二度と同じことはしませんと決意を神さまに祈ります。これを悔い改めと呼びます。

 悔い改めは、同じ罪を繰り返さないという決心だけではなく、神さまの御心に生きることを大切にするという決意でもあります。さらに言えば、自分第一の生き方から神第一の生き方に転換することと表現されることもあります。いずれにしろ、自分の生き方に変化が生じます。

 ある人は悔い改めますが、また同じことを繰り返してしまいます。悔い改めても、また同じ罪を犯してしまいます。するとその人はどう思うのでしょうか。自分は罪深いから同じ罪を繰り返してしまう、自分は罪人なんだと思ってしまいます。でも神さまは赦してくださるから感謝ですと言って歩みを始めます。罪を犯し、赦されている、しかしまた同じ罪を繰り返すという循環の中を歩むことになります。そこから抜け出ることがむずかしくなります。

 ある人は悔い改めますが、また同じことを繰り返してしまいます。悔い改めても、また同じ罪を犯してしまいます。するとその人はどう思うのでしょうか。自分はなんてみじめな人間なのかと考えます。自分はしたいと思うことができない、しかもそれを妨げる思いが自分の中にあることを知るのです。罪を犯さないように努力しても罪を犯してしまう。私はなんと無力な、哀れな、みじめな人間なのか、と考えてしまいます。

 しかし、しかし、しかし、自分のみじめさに打ちのめされるとき、主イエスの声が心に響いてきます。

マタイ 11:28~30
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 主イエスの軛を負うとは、福音を聞くと解釈することができます。主イエスは語ります。「自分の努力で罪を犯さないようにしようという重荷で苦しんでいる人よ、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私を信じなさい。私を信じる者は、新しく生まれ変わり、神の子とされ、神の子として生きていくことを喜ぶ心が与えられます。そうすればあなたは神さまの御心を喜んで行う者へと変えられるでしょう」。

 旧約聖書に出てくるダビデという王は、姦淫と殺人の罪を犯したことに気づかされたとき悔い改めて祈りました。

詩編 51:12
神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。

 ダビデは神に清い心を創造してくださいと祈り、また神の霊を授けてくださいと祈りました。神の霊が、私たちのうちに清い心を造ってくださいます。神の恵みです。私たちは神の恵みによって、罪に打ち勝って歩むことができるようになります。

 自分のみじめさ、無力さに打ちひしがれるとき、主イエスによって道が開かれます。

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