今日はうれしいことがありました。探していたものが見つかったのです。なくしたものが見つかったのではなく、前から見つけたいと思っていたものが見つかったのです。
それは宗教改革者ルターが語った言葉です。彼はキリスト者は「義人にして罪人」と語ったとされています。有名な言葉です。ネットで調べても出典が分からなかったのです。今日ルターの『ローマ書講義・下』(ルター著作集第二集9)の中のローマ書4章を解釈している部分を読んでいたら、この言葉に出会いました。
聖徒たちは内的には罪人であり、従って外的には常に義とされている。・・・内的とは、われわれが、われわれの目に、われわれの評価においてどのようであるかということである。外的にとは、われわれが神の前で、神の認定において、どのようであるかということである。
事実において罪人であるが、希望において義人である。
われわれは自らにおいて罪人であるが、神が認定してくださるので、信仰により義人である。我々を自由にしてくださると約束してくださる方をわれわれが信じるからである。われわれは、罪が支配しないよう、また神が罪を取り去ってくださるまで、われわれが罪に逆らうよう努めるのである。
義人であって同時に罪人である。事実罪人であるが、神の確かな認定と約束のゆえに義人である。神は完全に癒やしてくださるまで、罪から解放し続けてくださる。
これを見つけて本当にうれしかったです。ルターの理解と私の聖書理解が同じだと確認できてよかったです。私は現実としては罪深い者です。しかし信仰において義人です。私は事実に基づいて生きるのではなく、信仰によって歩みます。私のアイデンティティーは罪人ではなく、義人です。追加すれば、私は神の子です。神が義としてくださったので、それにふさわしいキリスト者になるよう神さまの恵みによって歩みます。
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