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隠退牧師 holala によるブログ

信仰によって義とされるとは

 聖書にはイエス・キリストを信じる人は義とされるとあります。義とされるとはどういうことでしょうか。 

ローマ 3:26
このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 

  イエスを信じる私たちは神さまによって義とされます。義とは正しいの意味です。つまりイエスを信じる者は正しい者であるとの意味です。もしこれを実際に私たちが正しい者になったと考えると誤解が生じます。つまり私たちは時々罪を犯すし、忙しい毎日、神さまのことを忘れて過ごしているし、私は正しい者なんてとんでもない、私は罪人である、などと考えてしまいます。 

 義とされるとは、私たちの存在を語る言葉ではありません。つまり私たちが正しい者になったということを意味しません。そうではなく、神さまが私たちのことをどう見るのか、神さまは私たちのことをどう受けとめているのかを示す言葉です。私たちと神さまとの関係に関わる言葉です。つまり神さまは、イエス・キリストを信じる人を正しい者と見なし、正しい者として関わってくださるとの意味です。神さまにとって私は正しい者なのです。これと似たものに「神の子」があります。イエス・キリストを信じる人は神の子です。 

ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 

  私たちは洗礼を受け、キリスト・イエスに結ばれ、神の子になります。これも私たちの存在が神の子になったというのではなく、神さまは私たちを神の子と見なし、神の子として関わってくださることを意味します。神さまにとって私は神の子なのです。私たちを神の子として関わり、私たちを正しい者と見てくださる、これは神さまの愛です。神さまの決意を見る思いがします。 

 これは私たちの親子関係に似ています。人は子どもが与えられれば親になり、その子どもは、自分の子になります。ここに親子関係が生じます。子どもが悪いことばかりをして、親の言うことを聞かないからと言って、親子関係がなくなることはありません。その子は、親の子なのです。何が起きても、子であることには変わりありません。 

 イエス様を信じる私たちと神さまとの間には、変わることのない関係があります。神さまが私たちを神の子としてくださり、私たちを正しい者と見てくださるということです。信仰における神さまと私たちの関係です。 

 ある人は、これはおかしいというかもしれません。神さまに対して罪を犯した人を正しい者と見なすのはおかしいと言うかも知れません。おかしいと言えばおかしいかもしれません。でも私たちが罪を犯すからといって、神さまと私たちの関係が壊れたり、変化したり、なくなったりすることはありません。神さまは私たちとの関係を大切にしてくださるのです。そしてここには恵みがあります。神さまが、それに値しないのに私たちを神の子と見なし、正しい者と見なしてくださるのは、神さまの恵みです。神さまは私たちとの関係をどれほど大切にしようとしているのかが分かります。 

 繰り返しになりますがイエス様を信じる人は正しい者となり、罪を犯さなくなるということはありません。神の子とされ、正しい者と神さまに見ていただいても、信仰者は罪を犯すことがあります。信仰者も罪深いと言えば罪深いのです。この罪深いは、私が見る私です。信仰者は、神さまが自分をどのように見てくださるかを大切にします。 

 神さまは嘘をついているわけではなく、いい加減なことをしているわけではありません。神さまは、私たちが罪を犯さないように助けてくださいます。私たちがこの助けを得ていくなら、私たちは次第に、神の子と呼ばれるのにふさわしい者、正しい者と呼ばれるのにふさわしい者にされていくのです。そこで私たちは神の子になる努力、正しい者になる努力をします。私たちは神さまの助け、つまり聖霊の助けを求めてこの努力をするのです。聖霊の助けは救いの恵みとして私たちに与えられます。

 聖霊の助けを得て努力していくとき、私たちは変えられていきます。昔からこのことを聖化と呼んでいます。さらに言えば、私たちは罪を犯さないまことの人間に向かって成長していきます。まことの人間、それはイエス様のことです。私たちは愛に生きる人に成長していきます。謙遜な人へ変えられていきます。敢えて言うなら、イエス・キリストに似た者へと変えられていきます。変えられる、それは神さまの祝福です。変えられた人は言うでしょう、なんと幸いなことか、と。 

 信仰者が「私は罪人です」とか「私は罪深い者です」というのを聞くと私は悲しくなります。信仰者は神の子とされました。罪深い神の子なんていません。私たちは罪を犯すかもしれませんが、私たちは罪人ではなく、神の子です。罪深い者であっても神の子とされています。ですから私は、神の子とされていることを喜びます。神さまが私を正しい者と見てくださることを喜びます。 

ヨハネ 9:31
神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 

  私は口が裂けても「私は罪人です」「私は罪深い者」とは言いません。それは私のことを大切に思ってくださる神さまを悲しませるからです。イエス様を悲しませるからです。神さまの救いの恵みは、私たちをイエス・キリストに似た者へと変えてくださる恵みでもあるからです。この恵みを受け取らないのは神さまを悲しませると私は思います。この恵みを受け、神の子として生きていきたいです。

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タカサブロウ(高三郎) 面白い名前です 散歩道