クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンの成長(4)義とされた者として生きる(修正版)

(昨日の文章はわかりにくいと妻から苦言。書き直しました)

 クリスチャンは神の目に義とされた存在です。神の前にクリスチャンは正しい者であり、罪に定められない存在です。義とされた私たちはどのように歩めばよいのでしょうか。

1.気づかされたこと

 私たちは普通、イエス様が十字架の上で人類の罪を背負い、その罪に対する神の怒りを受けて下さったのでイエス様を信じる者はその犯した罪がすべて赦されると信じます。過去に犯した罪も将来に犯すであろう罪も、今犯している罪も赦されると信じます。私たちは自分の罪の償いのために何もする必要はありません。最近気づいたのですが、パウロは信仰による義を語る時、「罪の赦し」を語りません。たとえば次の箇所です。

ローマ3:23~26
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 ここにはキリストが罪を償う供え物とされたことが書かれています。その供え物は、罪の赦しのためであるとは書かれていません。そうではなく、イエス様を信じる者を義とするためであると書かれています。なぜパウロは罪の赦しについて語らないのかと考えます。

2.パウロが考えるキリストという罪の供え物の意義

 パウロは「信仰によって義とされる」ことを語る時、キリストを信じる者と神との関係に注目しているように思えます。パウロは罪の赦しのさらに向こうを見ているように思えます。人はイエス・キリストを信じることにより、その犯した罪を赦されますが、罪が赦されることによって、神との関係が正常化するのです。

ローマ5:1~2
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 パウロは、イエス・キリストを信じ、罪を赦された人は、神との関係が正され、神との間に平和を得ていることを語ります

 たとえ話をします。ここに一組の夫婦がいて、どちらかが相手に対して不誠実なことをして、相手を傷つけたとします。すると夫婦関係にひびが入ります。そこで不誠実なことをした人が相手に対して謝罪をしたとします。もし謝罪を受けた人がその謝罪を受け入れ、相手を赦せば、夫婦関係は回復します。しかし赦さなければ、夫婦関係のひびはそのままです。やがて離婚という形で破綻するか、ひびの入ったままの夫婦関係が続くかです。ひびが入った関係というのは正常な関係ではありませんから、幸せな夫婦関係を営むことはむずかしいと思います。

 パウロは信じる者と神との関係の回復に注目していると思います。これは大事な視点だと思います。人が罪を赦されるのは、神との正しい関係の中に生きるためなのです。神との交わりに生きるためなのです。

3.神との契約

 私たち異邦人は、もともと神を信じてはおらず、神なしに生きてきました。神との関係はありませんでした。その私たちが自分の罪に気づかされ、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、クリスチャンになりました。私たちは自分の罪の赦しを受け感謝しました。このような私たちを神さまは義としてくださいました。私たちを神さまとの関係に生きるように、神さまとの交わりに生きるように招いてくださいました。

 このことは言い換えると、神さまは「わたしはあなたの神となる」と宣言してくださっていると考えることができます。神さまが信じる者を義とするということは、神さまが信じる者の神となってくださるということだ、とパウロが語っているように思います。この「わたしはあなたの神となる」という宣言は重要です。簡単には取り消すことができません。

 「わたしはあなたの神となる」と神が語られるので、私たちは「わたしは神の子となります」と語り、ここに神と信仰者の関係、交わりが成立します。新約聖書ではこれを新しい契約と呼びます。

 旧約聖書を読むと神さまはイスラエルの民と契約を結んだことが書かれています。これを私たちは古い契約(旧約)と呼びます。

4.契約を守り続ける真実な神

 ではクリスチャンが罪を犯したらどうなるのでしょうか。私たちが罪を犯すとその罪のゆえに、神さまは契約を破棄されるのでしょうか。旧約聖書を読むと、イスラエルの民が何度も罪を犯したことがわかります。金で牛の像を造り、またエルサレム神殿に異教の像をまつったこともあります。しかし神さまは契約を破棄することはなさいませんでした。神さまは契約に真実な方です。契約を重んじます。神さまは罪を犯す者が悔い改め立ち帰るのを忍耐深く待つお方です。そのことが旧約聖書に証しされています。

 神さまは私たちに対しても、あなたを義とし、あなたの神となると宣言してくださいました。約束してくださいました。神さまは聖いお方ですから、罪人と契約を結ぶことはしません。私たちが罪を犯したなら、神さまは私たちが悔い改めることを待っておられます。神さまは、私たちとの関係を維持したいからです。「私はあなたの神となる」という契約を神さまは破棄なさいません。神さまが、イエス・キリストを信じる私たちを義としてくださったという事実は重いのです。神さまは、契約を破棄することはなさいません。

 それゆえ私たちは、義とされたことを喜び、神の子とされたことを喜び、神の子として生きていきます。罪を犯すことはあるかもしれませんが、その時は悔い改め、神の子とされたことを感謝して生きていきます。「わたしはあなたの神となる」と神さまは約束されます。だから私たちは「わたしは神の子として生きていきます」と告白します。

 勿論、神さまはいやいやながら私たちの神となってくださるのではありません。神さまは私たちを喜ばれます。

ルカ15:4~7
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。

だから、義とされた私たちは、神の子として喜んで生きていきます。

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 クリスチャンは神の前に義とされている、というアイデンティティーについてはこちらを

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