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隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(10)罪の償いの供え物

ローマ 3:24
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。

 私たちの信仰にとって、キリストの十字架の死はとても大切な事柄です。それは「贖(あがない)いの業」と呼ばれ、キリストが罪を償うための供え物(犠牲)となられたことを指します。

 この、罪を償うために供え物(いけにえ)を献げることは神の律法に定められています。たとえばイスラエルの民が罪を犯した場合、どうすべきか、律法には次のように書かれています。

レビ記 4:27
一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたときは、献げ物として無傷の雌山羊を引いて行き、献げ物の頭に手を置き、焼き尽くす献げ物を屠る場所で贖罪の献げ物を屠る。

レビ記 4:31
祭司は主を宥める香りとしてそれを祭壇で燃やして煙にする。祭司がこうして彼のために罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。

 ここで覚えておきたいことはイスラエルの民は神さまと契約を結んだ民であることです。神さまは「私はあなたたちの神となる」と約束し、イスラエルの民は「私たちは主が語られた言葉をすべて行います」と約束し、神と民との間に契約が成立しました。つまりイスラエルの民は神との関係に生きる民となったのです。

 イスラエルの民がもし神の戒めを破った場合、罪の償いをして、神から赦しを得、神との関係を維持します。罪の償いをしなければ、神の顧みを受けることができなくなります。

 旧約の時代は、イスラエルの民が罪を犯した時は動物のいけにえをささげて罪の赦しを得ました。ささげる動物は先のレビ記では「無傷の雌山羊」をささげるとあります。無傷とあります。けがをしたり、年をとって使い物にならなくなった価値のない動物をささげるのではなく、無傷の動物を献げます。

 だれかが人間の罪を償う供え物になることができるとすれば、それはどんな人でしょうか。もし自分の子供が罪を犯した時、親が自分を償いの供え物としてさしだしたらどうなるでしょうか。神は受け入れません。なぜならその親はこれまでに罪を犯したことがあるからです。罪を犯した者は、他の人の罪を償うことはできません。イエス・キリストが罪を償う供え物になる時、イエス・キリストは一度も罪を犯したことがない聖なる者でなければなりません。

ガラテヤ 4:4
しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。

 イエスは律法の下に生まれました。神の民イスラエルの民として、神の律法を守るべきものとして生まれました。彼はその生涯の間、神に対して従順に歩み、罪を犯すことはありませんでした。それゆえ、罪を償う資格を持っていたということができます。罪を犯さない者だから他者の罪に対する罪の償いの供え物になることができます。

 イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、神に対して従順に歩まれました。この方が私たちの罪の償いの供え物として十字架で亡くなられました。

 イエス・キリストを信じ、義とされたことを信じる私たちは、イエスが徹底して神さまに従順に歩み、神の律法を満たした方であることを覚えることが大切だと思います。律法を満たした方が、私のために罪を償う供え物となってくださいました。このことを信じる人を神は義、正しい者としてくださいます。

クサギ 近所で