2020-09-01から1ヶ月間の記事一覧
信仰者の心の中は罪との戦いの戦場。そこに福音が届けられます。
イエスは真の神そして真の人。このイエスは私にどんな励ましをもたらすのでしょうか。
私が聖書の「救いのモデル」と考える出エジプトの出来事は、示唆に満ちています。
私たちは洗礼を受け、キリストに結ばれました。キリストに結ばれたので、キリストに起きたことは私たちにも起きたことになります。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
死を越える楽しみ、それが喜んで死ぬことを可能にするのではないか。
行動において、思いにおいて囚われている状態があるなら、それが好ましくなく解決したいと思いながら自分の力で解決できないのなら、それは罪の奴隷状態にあると言えます。
聖書で罪は擬人化されて描かれています。つまり人間に罪を犯させる力として描かれています。このような悪しき力が存在しているのです。
罪の領域と御子の支配する領域のどちらで生きるのか。人はどちらかの領域で生きています。
人はみな罪の下にあります。罪の支配下にあるというのです。聖書の人間観です。
パウロは信仰者は「罪の中に生きることはできない」と語ります。挑戦的な言葉です。
キリストに結ばれた私たちは死にました。どういうことでしょうか。このことを理解することは救いの大いなる恵みへと私たちを導きます。
近況です。夏が過ぎ、静かな夜、思いに浸り、また聖書を学ぶ日を過ごしています。
キリストに結ばれるってどんなことでしょうか。キリストがいつもわたしと共にいてくださるということ?それ以上のことです
終末の事柄をいかに信じるのか。賛美することは、自分の声を通して、歌詞を聞くこととなり、信仰が芽生えます。
イエス・キリストを信じる人はキリストに結ばれています。もしキリストに結ばれていると考えないと私たちは根無し草の信仰者になってしまいます。
成熟した信仰者ってどんな人なのでしょう。それは神の知恵を語る人です。神の知恵とは、世界創造時に神が持っておられた計画のことです。
パウロは死ぬことは益ですと語りました。死ねば、神の国に行き、キリストと出会い、いつまでもキリストと共にいることになるからです。
キリストを信じる人はクリスチャンと呼ばれます。クリスチャンであるとは、キリストに結ばれた存在であることを意味します。
昨日の祈祷会で讃美歌211番を懐かしさを覚えつつ賛美しました。教区総会で行われる按手礼で歌うのが楽しみでした。
私が説教で時々語るたとえがあります。蛙(かえる)のたとえです。もし皆さんが天国に行った時、そこにいるのはみんな蛙だったらどうするかという話しです。
私たちの心は、神のみ心に従いたいという心と自分の好きに生きたいという心が戦う戦場です。聖霊は私たちを神のみ心に従うように導き、肉は自分の思い通りに生きるように働きかけます。