クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

心の変化を喜ぶ

 朝ディボーションをする前に賛美をすることにしています。大きな声で賛美します。喉を鍛える目的もあります。牧師を引退して話す機会が減り、喉で話すようになり、年のせいもあり、声に力がなくなったと思うからです。

 今日讃美歌288番を賛美しました。「わが身ののぞみは ただ主にかかれり 主イエスのほかには よるべきかたなし」。ただ私はこの曲を英語で賛美します。賛美しながら今日、私の心の変化に気づきました。

 ハイデルベルク信仰問答によれば、まことの信仰とは、聖書が告げることを真理と認識すること、及び、認識したことに心から信頼することとあります。

 私たちの信仰は盲目的に何かを信じることではなく、理性が信ずべき内容をそれなりに納得して信じる面があります。聖書が告げたことを真理と判断するのは、理性の働きです。そしてそれを心から信頼して生きるのです。

 すると頭(理性)と心の対立ということが起きるのです。頭では信じても、心がついて行かない、ということが起きるのです。ある人は、信仰とは神に信頼することだと頭では理解しても、心から信頼して一歩を踏み出すことにためらいを感じています。本当に大丈夫だろうか、と不安になるのです。心がついて行かないのです。

 私の場合は、終末の事柄を心から信じることが課題です。現代人の常識では、終末の事柄は絵空事に思えます。私は信仰者ですから頭では信じていますが、心がまだついて行かないのです。しかし、信仰は聞くことからと聖書にあります。

ローマ 10:17
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

 今日讃美歌288番を英語で歌いました。以前にもブログで書きましたが、繰り返します。

I dare not trust the sweetest frame
but wholly lean on Jesus's name. 

 the sweetest frame は訳しにくい言葉ですが、「とても魅力的な考え方」と訳します。すると「私はとても魅力的な考え方にあえて信頼せず、全面的にイエスの御名に寄りかかる(信頼する)」と訳すことができます。ここには信仰の決断が表明されています。

 終末の事柄をどのようにしたら信じることができるのか、信じることができるような説明、考え、理屈を私は探したのです。なかなか見つかりません。仮にあったとしてもそれに信頼しないというのです。イエスの名に寄りかかるというのです。信仰とは信頼であり、それは心からの信頼です。人格的信頼です。人格的信頼は理屈だけでは生まれません。

 私が試みているのは賛美することです。終末の事柄を歌う賛美歌で賛美することです。すると自分で歌う声が聞こえてきて、「信仰は聞くことから始まる」につながります。讃美歌288番の4番は日本語ではこうです。

見ぬ世にうつりて まみゆるそのとき
主の義をまといて みまえにたたまし 

 英語を訳すと似たような内容ですが、

トランペットの響きと共にイエスがおいでになる時、
私が彼の内にいる者と見なされるように
彼の義だけを着て、咎なき者として御座の前に立つことができるように 

 「トランペットの響きと共にイエスがおいでになる時」。イメージが描けます。こういうイメージを描く中で、少しずつ心から信じることができるように変えられてきている気がします。

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朝焼けの空 散歩で