ロマ 8:1
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
キリストに結ばれた者は罪に定められない、とあります。私たちは自分は罪深い存在なのだと自分を責めたり、自分は罪人と悩む必要は一切ありません。
悪魔は私たちの心に「そんなに罪を犯しているのに罪に定められない、とのんきに信じていいのか」とか、「宗教改革者のルターは、私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めなさい』と言われたとき、彼は信じる者の生涯が悔い改めであることを願ったのである、と言っているぞ」などと働きかけてきたりします。自分でも「繰り返し罪を犯しているのに罪に定められないといって本当にいいのかしら」などと考えてしまいます。
イエス様のおかげで罪は赦されていると思うけどやっぱり私は罪人よね、などと考え、心が定まりません。
コリント二 5:17
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
クリスチャンはキリストに結ばれ、新しく創造された者と聖書は明確に語ります。しかし悪魔は「それでも新しく造られたっていえるの、お前の振る舞いは、信仰を持つ以前と全然変わっていないし、相変わらず罪を犯しているじゃないか。自分は新しく造られたものであると信じるなんて、どうかしているんじゃない」と働きかけてきます。
自分自身でも「こんな行動をしていて、家族からもそれでもクリスチャンなのと言われるし、自分が新しく造られた者だなんて信じられないわ」と言ったりします。すると自分が何者なのか分からなくなります。
ガラ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
キリストを信じるクリスチャンは神の子です。それが証拠にあなたは祈る時、神さまを「父」と呼んでいまよね。「私が祈りで神さまを『天の父なる神さま』っていうのは習慣よ。自分が神の子だなんて、恥ずかしくて人に言えないわ」などと言う人もいると思います。
そうなると「あなたは何者なの」と私は言いたくなります。「ええと、ええと、いちおう私はクリスチャンだけど。神の子はイエス様でしょ。私が神の子なんて。とんでもない」。「じゃあ、クリスチャンってなに」。「罪を赦された人のことでしょ」。「罪赦されて神の子にされたんよ」。「でも・・・」と心は揺れ動きます。
キリストに結ばれている、ここがクリスチャンの立ち位置です。まずはここに立つ。そこから信仰の歩みが始まります。自分が神の子と思えるかどうか、自分が新しく造られたと思えるかどうか、「そんなの関係ねえ!そんなの関係ねえ!」。まずはスタート地点に立って、聖書が語る救いの恵みに耳を傾けることが大切です。