御国を思う
自分の老い先を考えると時に不安になります。神に信頼し、神にゆだねるのがよいと教えられました。
世を去る時が近づいたことを知るパウロは義の冠を得ることを期待しています。キリスト者も義の冠を受けると励まします。
黙示録の言葉。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」。慰めに満ちた言葉です。
私にとってアブラハムは信仰の模範です。彼は天の故郷を熱望していました。わたしもそうしたいです。
「栄光から栄光へ」というワーシップソング。キリストに似た者となるという信仰の目標を与えられました。
パウロは、「世を去ってキリストと共にいたい」との願いを表明しています。今、世を去ってもいいとさえ思っています。このパウロの願いにびっくりします。
私は聖句をもとに死後の希望、楽しみを抱くようにしています。
もし余命宣告を受けたら、時部はどうするのかなと考えるように導かれました。聖句を握りたいと思います。
時々、何とも言えない重苦しい気持ちで目覚めるときがあります。私の心に死が影を落としているのです。この重苦しい気持ちは、私の心を聖書に向けさせます。
「来たらせたまえ 主よみ国を」という讃美歌の言葉が心に響いてきました。現代世界の混乱を思うとき、神の国の到来を待ち望む思いが湧いてきます。
老いを生きるとは、御国を目指す旅路を生きることを意識することと考えています。一日分の歩みを意識するために、讃美歌と聖書通読を日課とします。
死を越える希望を「教え」として受けとめるのではなく、 「神の約束」として受けとめるなら、うれしい希望となるのではないでしょうか。
先日、先輩牧師の訃報を聞きました。ふと思いが与えられ、聖書を開きました。
終わりを見て生きる、それが私の人生観です。自分の命の終わりと世界の終わりの終末。この二つを見て今を生きます。
自分が死の床にある時、思いめぐらしたい聖書箇所が色々あります。その一つはマタイ福音書25章31節以下です。
聖書には、自分が死ぬことを楽しみにしている人が登場します。私も見倣いたいです。
信仰に生きるとは、「命の神に、わたしの魂は渇く」ことに共感することではないかと思います。御国に迎えられるとこの渇きが癒やされます。
信仰者として神の国のイメージを思い描いて、いつの日か神の国に迎えられるのを待ち望みたいと私は考えています。
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」。 キリスト者の私に神が示される地とは?
モーセはネボ山に登り、イスラエルの民がこれから進む土地を見渡して亡くなりました。
主イエスは漁師たちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りました。「私について来なさい」との呼びかけが私にも向けられています。
讃美歌22番の歌詞が心に留まります。 めさめよわがたま この日もひねもす みくにをのぞみて いそしみはげめや
朝メールをチェックしたら、神学校の関西支部の先生から訃報を知らせるメールが届いていました。
パウロは、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望して」いると語ります。私の願いは、この世を去って、神を見ることです。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。訃報を聞くことによって何が始まるのでしょうか。
すでに神に国は到来していますが、いまだ神の国の完成は到来していません。
小坂忠さんの訃報を聞いて心に去来した思いを書きました。
賛美は力。老いを生きるとき、賛美を通して希望をたしかにしたいと思います。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのであるとイエス様は教えられました。
キリストによって豊かにされた私の6回目は<永遠を思う心>です。永遠を思う心が湧き上がってきたのは、年をとってからです。