御国を思う
終わりを見て生きる、それが私の人生観です。自分の命の終わりと世界の終わりの終末。この二つを見て今を生きます。
自分が死の床にある時、思いめぐらしたい聖書箇所が色々あります。その一つはマタイ福音書25章31節以下です。
聖書には、自分が死ぬことを楽しみにしている人が登場します。私も見倣いたいです。
信仰に生きるとは、「命の神に、わたしの魂は渇く」ことに共感することではないかと思います。御国に迎えられるとこの渇きが癒やされます。
信仰者として神の国のイメージを思い描いて、いつの日か神の国に迎えられるのを待ち望みたいと私は考えています。
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」。 キリスト者の私に神が示される地とは?
モーセはネボ山に登り、イスラエルの民がこれから進む土地を見渡して亡くなりました。
主イエスは漁師たちに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りました。「私について来なさい」との呼びかけが私にも向けられています。
讃美歌22番の歌詞が心に留まります。 めさめよわがたま この日もひねもす みくにをのぞみて いそしみはげめや
朝メールをチェックしたら、神学校の関西支部の先生から訃報を知らせるメールが届いていました。
パウロは、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望して」いると語ります。私の願いは、この世を去って、神を見ることです。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。訃報を聞くことによって何が始まるのでしょうか。
すでに神に国は到来していますが、いまだ神の国の完成は到来していません。
小坂忠さんの訃報を聞いて心に去来した思いを書きました。
賛美は力。老いを生きるとき、賛美を通して希望をたしかにしたいと思います。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのであるとイエス様は教えられました。
キリストによって豊かにされた私の6回目は<永遠を思う心>です。永遠を思う心が湧き上がってきたのは、年をとってからです。
私は毎朝祈るとき、今日も御国への一日の旅路を歩むことができますようにと祈ります。一日の終わりには感謝。しかし・・・
今際の際にある兄弟のための祈りを考えるように導かれ、祈りました。
私が説教で使ったカエルのたとえを紹介します。
アブラハムは行き先を知らずして故郷を後にして信仰の人生に旅立ちました。彼は天の故郷を目指していました。
次いで世の終わりが来ますとパウロは語ります。世の終わりが来る、どう受けとめたら良いのでしょうか。
入院したときに抱く不安。退院できる、できない。できないとしたら。
主の祈りを毎日祈っているとすると、「御国が来ますように」と毎日祈っていることになります。
死を越える楽しみ、それが喜んで死ぬことを可能にするのではないか。
終末の事柄をいかに信じるのか。賛美することは、自分の声を通して、歌詞を聞くこととなり、信仰が芽生えます。
私が説教で時々語るたとえがあります。蛙(かえる)のたとえです。もし皆さんが天国に行った時、そこにいるのはみんな蛙だったらどうするかという話しです。
私は今三つのことに挑戦しています。常にチャレンジできる、うれしいことだと思います。70歳を超えていますが。 1.ペン回し ボールペンを手で持ち、指をクイッと動かしてペンをぐるりと回転させるあのペン回しです。上手な人のペン回しを見ていると神わざに…
唱歌「ふるさと」を聞いてイメージが湧いてきました。志を果たして天の故郷に帰る!
天の国への憧れが、今を生きる力を与える。すてきな教えではないでしょうか。