老いを生きる者にとって、神の国の希望に生きることは大切なことであり、このことを思い巡らすことができるのは老いた者の特権ではないかと思います。
神の国に迎えられたとき、どんな気持ちになるのでしょうか。それは経験したことがないので分かりません。色々想像することはできます。想像することは神の国の希望を確かなものにすることにつながるのではないかと考えます。それは自分にとって神の国のイメージを豊かにすることになると思います。それは妄想ではありません。
それで今日は、詩編42編を思い起こしました。
詩編 42:2~3
涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。
詩人は「いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか」と問います。神の国に迎えられたとき、私は神の御前に出て、神の御顔を仰ぐことができます。そしてその時、私の魂は満たされます。魂の渇きが癒やされます。これ以上のものはない神の臨在に魂は満たされます。
信仰に生きるとは、「命の神に、わたしの魂は渇く」ことに共感することではないかと思います。御国に迎えられるとこの渇きが癒やされます。この癒やしは、どのような言葉をもってしても表現できないもの、どんな言葉をもって表現しても、それを遙かに超えるものと考えます。それゆえ、私はこれを待ち望み、期待します。
暑い夏の日が続いています。汗をかき、喉が渇きを覚えるときに飲む冷たい水の一杯が何とありがたくうれしいことか。神の御顔を仰ぐときの、何とも言えない魂の渇きの癒やし、それを私は待ち望みます。