聖霊
「霊の導きに従って生きる」と題しての説教です。
パウロはキリストを心の内に住まわせるように祈ります。キリストが自分の心の内に住むとはどういうことか。
エフェソ書の聖句の紹介。終末において、あらゆるものがキリストにあって一つにまとめられるという。
キリスト者は新しく生まれた存在です。キリスト者として生きて行こうと考えるのは新しく生まれた証拠です。
私を生かした聖句。 詩篇 4:8 人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。
私を生かした聖句。 コリント二 3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
「霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」。霊に従う人は聖書を糧とします。聖書を読み、読んだ箇所を思いめぐらし、読んだ聖書の言葉を自分の信仰の歩みの導きの光とします。
霊に従うと何が起きるのでしょうか。律法の要求が満たされるとあります。つまり霊に従う人は神の律法を守ることができるというのです。
人は洗礼を受けるとキリスト者になります。霊に従って歩むことを始めます。まず最初に確認したいことは、キリスト者のうちに聖霊がおられることです。聖霊がおられることは実感することではなく、信じることです。
人間は霊と心(魂)と体からできていると聖書は教えます。アダムが罪を犯したおかげで人間の霊は死に、キリストを信じて洗礼を受けるとき、霊は再生します。
洗礼を受けキリストに結ばれた者は、「神の子なのです」とあります。そこでまず、自分が神の子とされたと考え(信じ)喜びます。
使徒パウロはロマ書6章で次のように語っています。パウロが語る洗礼、それが聖霊のバプテスマだと私は理解します。
信仰を考える時、信仰的事実と経験的事実との違いを知ることが大切です。信仰的事実は霊的事実と言うこともできます。
普段考えている事柄とは違ったテーマですが、ロマ書の学びをしている中で、そうなのか、と教えられたような気がしました。
キリストに結ばれて自分はどのように変わったのか、振り返ります。
神に喜ばれる信仰者とは、救いの恵みを受け取って生きる人です。
聖霊の助けを与えられて神の御心を大切にしていくとき、キリスト者は神の御心に従おうとの意志が強められます。
人がキリスト者になると、神の教えに従おうとの思いを抱くようになります。しかし、従いたくない心があることに気づきます。
キリスト者が神の御心に従う歩みを始めると大きな悩みに直面します。自分は神の御心に従いたいと願いますが、それに反抗する思いが心の中にあることに気づくのです。
聖霊の働きが、神を愛する心をキリスト者のうちに創り出すのです。キリストによる救いの恵みです。
神を愛する心と全身全霊で神を愛せよとの教え
キリスト者は新しく生まれ変わった存在です。生まれ変わりをもたらすものは、キリスト者に与えられた聖霊です。
イエス・キリストを信じた人に与えられる救いの恵みは罪の赦しであり、さらに義とされます。これに続いて与えられる神さまの救いの恵みは「新生」です。
キリスト者にとって救われて生きるとは、キリスト者として成長することであると私は信じています。
悔い改めは、同じ罪を繰り返さないという決心だけではなく、神さまの御心に生きることを大切にするという決意でもあります。さらに言えば、自分第一の生き方から神第一の生き方に転換することです。
キリスト者に与えられた「いのち」に必要なものは霊の乳です。霊の乳とは神の言葉のことです。
私たちは自分の行いに神の子とされるふさわしさを得るのではなく 恵みによって神の子とされます。
1.聖書に聞く 聖書を読む時のポイントとして二つのことを紹介しました。 神はいかなる方かを知る。 神がキリスト者に求める生き方を知る。 これをAと呼びます。 2.自分を思いめぐらす 次に自分について思いめぐらします。 自分はどんな状況にあるのか。 …
「いつも喜んでいなさい」とあります。これは無理です。信仰から来る喜びが心の底にあります。
これが起きれば、世を去ってもいいと思えることがあるのでしょうか。