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隠退牧師 holala によるブログ

そうだったのか、聖霊のバプテスマ(2)

 信仰を考える時、信仰的事実と経験的事実との違いを知ることが大切です。信仰的事実は霊的事実と言うこともできます。以下の二つの聖句は、信仰的事実を語っています。

使徒言行録 26:17~18
わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。
それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。

 これは復活されたイエスがパウロを使徒として派遣する時の言葉です。パウロは福音を宣べ伝えるために派遣されますが、それは人々を「闇から光へ」「サタンの支配から神に立ち帰らせ」るためと書かれています。
 イエス・キリストを信じた人は、闇から光へ自分の置かれた場所が変わることを上記の聖句は教えています。キリスト者はもはやサタンの支配下にはおらず、神に立ち帰り、神の下にいるのです。

コロサイ 1:13
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

 キリスト者とは、闇の力から解放されて御子の支配の下に移された人のことを言います。

 二つの聖句は、キリスト者の生きる場が変化したことを告げます。この変化は実感できることではなく、信ずべきこととなります。

 信仰に生きるとは、信仰的事実に立って生きることです。たとえばキリスト者は、神の存在を実感しながら生きているわけではないと思います。神がおられると信じ、神がおられると考え、神を信じる生活をしています。つまり神がおられるという信仰的事実の上にキリスト者は生きています。神が存在するという経験的事実の上に生きているわけではありません。つまりいつも神がおられると実感して生きているわけではありません

 キリスト者は、闇から光へ、闇の力の支配から御子の支配へ、自分の置かれた場が変わったのです。これは信仰的な事実であり、このことを信じて、キリスト者は歩みます。

ヘブル 11:1
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 この聖句は、信仰とは望んでいる事柄、つまり信仰的事実を確信し、確認して生きることだと教えています。信仰とは信仰的事実に生きることを意味します。

 そこで聖霊のバプテスマです。このバプテスマによって、キリスト者は自分がキリストに結ばれたという信仰的事実に生きることになります(続く)。

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