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隠退牧師 holala によるブログ

そうだったのか、聖霊のバプテスマ(3)

 聖霊のバプテスマについては、信仰的立場によって異なる理解があります。私自身は改革派の信仰に立っていますが、以下に書くことは、個人的な見解です。

 使徒パウロはロマ書6章で次のように語っています。パウロが語る洗礼、それが聖霊のバプテスマだと私は理解します。

ローマ 6:3~5
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

 ここには洗礼とは、私たちをキリストに結びつけるものであると書かれています。私たちはキリストと一体となると書かれています。それは具体的には、キリストの死と復活が私の出来事になるというのです。

 私は罪に対して死に、キリストが復活したように、私は新しい命に生きるというのです。

ローマ 6:6~7
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 キリストと共に死んだ私たちは罪の奴隷になりません。私たちの古い自分が死んで、私たちは罪から解放されているとあります。

 パウロが語る洗礼は、私たちをキリストと結びつけます。その結果、私たちは罪から解放され、新しい命に生きるとあります。私たちがキリストと結びつけられていること、罪から解放されたこと、新しい命に生きていること、これは実感することではなく、信ずべきこと、信仰的事実です。

ローマ 6:11
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 「考えなさい」とパウロは言います。実感はできませんが、自分は罪から解放されていること、新しい命に生きていると考えなさいとパウロは語ります。考えて信仰の歩みをしなさいと命じます。信仰的事実に立って歩みなさいと命じます。

 このような歩みを続けていくと、この信仰的事実が私たちの経験的事実となっていきます。つまり実感するようになります。聖霊の働きによって経験的事実となっていきます。

 イエスは聖霊によって洗礼を授ける方であると洗礼者ヨハネは証言しました。この洗礼にあずかる者が、新しい命に生き、罪から解放されることは、イエスが授ける洗礼にふさわしいと考えます。

 聖霊による洗礼を私たちはいつ受けたのでしょうか。いつ受けたのか、それは考える必要はないと考えます。大事なことは、「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」と「考えて」歩むことです。それを可能にするのが聖霊です。それを導くのが聖霊です。(続く)

馬見丘陵公園