律法
霊に従って歩むに際し、第一にキリスト者は自分が何者であるかを自覚すること、第二に肉に従う力が働くで、これとの戦いがあることを指摘しました。その上で霊に従って歩むときの目標が今回のテーマです。
霊に従うと何が起きるのでしょうか。律法の要求が満たされるとあります。つまり霊に従う人は神の律法を守ることができるというのです。
主の晩餐において、キリストは新しい契約をもたらす方であると語られました。信仰者が律法を満たすようになるという約束。
最近十戒が人類にとって大切な戒めであることを思わされます。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな」。
キリスト者はなぜ、神の戒めを守るのでしょうか。その理由、根拠は?
キリスト者が、喜んで、進んで神の戒めを守る努力をする理由は何?
聖書が語る罪について考えていて、ふと思いました。モーセの十戒の戒めはなぜ、今あるの10の戒めなのかと。
「神はキリスト者に神の戒めを行う力を与え、キリスト者は神の戒めを守ります」。うれしい言葉ではないでしょうか。
私たちは神の戒めをどのように受けとめたらよいのでしょうか。神の戒めは私たちを祝福するものとしてあると私は信じます。
私はクリスチャンが「神さまの戒めを守らなければならない」と語るのを何度も聞きました。なぜ、守らなければならないのかと考えるのでしょうか。
キリスト者は地上の生涯を終えると神の国、神さまのもとに行きます。住む場所が変わります。それと同じように私たちがキリストを信じ、キリストに結ばれると住む場所が変わります。
キリスト者は、律法の下にはいない、律法に対しては死んだ者、律法から解放されている、とあります。どういうことでしょうか。
私は多くのクリスチャンが神さまの教えを守らなくてはならないと語るのを聞いてきました。どうして「守らなくてはならない」と考えるのでしょうか
キリスト者を迫害することからキリストを宣べ伝える者へパウロは返信。何が起きたのか。
神の戒めは何のためにあるのでしょうか。どうしたら守れるようになるのでしょうか。
キリスト者は律法から解放され、「しなければならない」という考え方から解放されました。神の教えを守らなければならないとは考えません。守りたいと考えるのです。
律法の二つの役割。人を祝福する働き、人に罪を知らせる働きがあります。
「しなければいけない」世界、律法の下にある信仰者の歩みから自由になった話しです。
キリスト者は神の教えを守らなければならないとは考えず、神を愛し、神の心を大切にするので、これに喜んで従おうとします。
(クリスチャンの成長(66)キリストに結ばれて- 24) ローマ 7:4~6ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。・・・・しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律…